村田銃の出現まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:48 UTC 版)
江戸時代後期に入り、阿片戦争など欧米列強のアジア侵略が露骨化し、日本国内でも西欧軍事技術の研究が盛んになり、各種の銃砲が積極的に輸入されるようになった。これらの銃砲を国産化しようと努力した諸藩のうち、集成館事業によって大規模な殖産興業政策を採った薩摩藩の家臣だった村田経芳は、豊富な火器知識と卓越した射撃の技量により、薩摩藩兵から新生日本陸軍の将校に転じ、薩摩閥の大久保グループに属して日本陸軍の火器購入・運用・修理の統括責任者となった。 明治維新期は火器が飛躍的に発達しはじめた時期にあたり、様々な形式の火器が出現して数年を置かずに瞬く間に旧式化するというサイクルが繰り返されており、各藩から集められた火器は新旧各種が混在した状態だった。 発足したばかりの新生日本陸軍での歩兵教練は、輸入されたテキストを日本語に翻訳したマニュアルとお雇い外国人による指導に頼っており、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典が、次いで1874年(明治7年)に陸軍省によって1872年版同操典が採用された事から、その主力小銃は全て後装式に統一された。 当時の日本陸軍が保有していた後装式火器には各々長短があったが、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢)が後方装備とされ、この他に七連発の米国製スペンサー騎兵銃(リムファイア金属薬莢式)が騎兵銃として、前装式で旧式化していたエンフィールド銃がスナイドル銃への改造母体および射撃訓練用などに多数が保有されているなど、多種の銃器・弾薬が混在する状況に、日本陸軍は補給や訓練の面で大きな困難を抱えていた。 これらの銃器のうち、最も先進的な構造と優れた性能(射程・弾道特性)を有していたのはシャスポー銃であり、村田経芳は新生日本陸軍が幕府陸軍から引き継いだシャスポー銃用の紙製薬莢の製造や、消耗品であるガス漏れ防止用ゴムリングの調達に腐心するなど、そのメンテナンスに努めており構造も熟知していた。 普仏戦争後の1874年(明治7年)に、フランス本国でシャスポー銃のグラース銃への改造が行われ、シャスポー銃最大の弱点だった紙製薬莢が金属薬莢式に変更されたことを知った村田経芳は、日本陸軍のシャスポー銃を金属薬莢式に改造することと、その国産化を企図し始めた。 1875年(明治8年)に村田経芳は射撃技術と兵器研究のためフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧州留学に赴き、シャスポー改造グラース銃を国産化する準備を開始するが、帰国すると郷里の鹿児島で西南戦争が勃発した。 決起した西郷軍には戊辰戦争を経験した多くの元薩摩藩兵・日本陸軍軍人が参加しており、日本陸軍は徴兵で集められた鎮台兵を大量投入して鎮圧を図ったため、忽ち主力小銃であるスナイドル銃の在庫が足りなくなる事態が発生した。 これを絶好の機会と見た村田経芳は、フランスでその改造工程を実見したシャスポー改造グラース銃を参考に、金属薬莢式に改造したシャスポー銃を自ら試作し、ドイツの企業を下請けにして陸軍が退蔵しているシャスポー銃の改造作業を行い、実戦配備する事を計画した。 しかし、この計画が実行に移される前に、日本陸軍はスナイドル弾薬の確保に辛うじて成功し、村田経芳自身も狙撃の腕を見込まれて西南戦争へ送られ、そこで負傷してしまった。 西南戦争は日本陸軍の勝利で終結したが、歳入のほとんどを戦費に使い果たした日本政府は財政難に陥り、陸軍も新小銃の国産化よりエンフィールド銃のスナイドル銃への改造を優先させたため、村田経芳のシャスポー銃改造計画は凍結された。 しかし、この凍結が怪我の治療を終えた村田経芳に時間の余裕を与え、シャスポー改造グラース銃を一部簡略化した設計で試作を始めた村田は、1880年(明治13年)に至り、ついに国産小銃の製造に成功した。
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