西南戦争後の再編制
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「大日本帝国陸軍の歴史」の記事における「西南戦争後の再編制」の解説
西南戦争後、その戦訓や自由民権運動による政変への対応から陸軍の即応性の確立と天皇親卒体制への改善が図られた。軍の作戦活動を国政から切り離し自由且つ迅速に行うことを目的とし、1878年(明治11年)にドイツ陸軍の兵制を範にとり、参謀本部と監軍本部が設置された。軍令機構は太政官政府から天皇直隷となり、陸軍の軍令と軍政の所掌機関は二元組織となった。 同じく1878年8月に竹橋事件が起き、他にも規律上の問題案件や自由民権運動の高まりとともに政治に関与する軍人の諸事件等が起きていた。軍人の規律を守らせるにあたり、兵部省は明治5年に読法を布告し他にも褒賞・処罰等の規則が定められていたが、竹橋事件後に陸軍卿山県有朋は軍人訓戒を配布し軍人道徳の確立を図ったがその内容は旧来の封建武士道における君主と武士の関係を天皇と軍人に置き換えただけであり効果的ではなかった。1879年(明治12年)に東京招魂社を靖国神社に改称の上、別格官幣社とした。この管轄は内務省・陸海軍省となり、戦死後の名誉としてあり方が確立され士気を向上させた。1881年(明治14年)1月に憲兵が陸軍兵科の一つとして設けられ、東京憲兵本部が置かれ、12月には陸軍刑法が定められた。1882年(明治15年)1月4日に天皇は軍人勅諭を下賜した。 軍人の処遇・賞罰をめぐる諸制度の整備と平行し各種軍学校の充実発展にも意欲が注がれた。1877年(明治10年)に陸軍士官学校が陸軍幼年学校と合併、1882年11月に参謀養成のため陸軍大学校を設け、1887年(明治20年)6月、陸軍士官学校官制と陸軍幼年学校官制が再制定のうえで士官候補制度が設けられ第1期生は翌年1888年(明治21年)11月に陸軍士官学校に入学した。後の1897年(明治30年)に陸軍幼年学校は再設置された。これらの学校以外にも1886年(明治19年)から1889年(明治22年)にかけて、陸軍砲兵射的学校、陸軍軍医学校、陸軍獣医学校、陸軍経理学校、陸軍乗馬学校、陸軍砲工学校等が整備された。
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