西南戦争以降とは? わかりやすく解説

西南戦争以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:48 UTC 版)

谷干城」の記事における「西南戦争以降」の解説

西南戦争功績により明治11年1878年11月陸軍中将昇進陸軍士官学校長・陸軍戸山学校となった。しかし明治14年1881年3月先の台湾出兵戦死病死し将兵遺体一部地方官が乱暴に取り扱った事実政府陸軍首脳部放置していたと知り抗議辞任をする。この時、明治天皇は谷の意見評価して辞任差し止めさせようとしたり、佐々木通じて帰郷延ばして自分忠節を尽くすように伝言している。この問題は、6月天皇が谷の陸軍中将慰留する代わりに陸軍士官学校長と陸軍戸山学校長を免職するまで持ち越された。また、地元高知自由民権運動過激化することを憂い急進的な民権派政治団体立志社対抗し佐々木と共に穏健な政治運動標榜する中立社を立ち上げたが、立志社勢い太刀打ち出来ず明治11年秋に廃社となったこの頃から政治関与始め同年7月開拓使官有物払下げ事件政府動揺広がる中、谷は曾我祐準鳥尾小弥太三浦梧楼ら3人の軍人四将軍派を結成し佐々木と共に払い下げ反対表明9月連名国会開設建白書提出10月には佐々木同志元田永孚土方久元らと結託して中正党も結成するなど、現役軍人ありながら政治のめり込む姿勢山縣危険視され、明治十四年の政変大隈重信政府から追放され事態収拾されると、佐々木政府取り込まれ中正党の運動不明瞭になり、明治15年1882年)に山縣軍人政治関与禁じた軍人勅諭制定四将軍派の活動抑えられた。 谷は非職ありながら度々政府から復職望まれ明治17年1884年5月学習院院長として復帰したかねてから華族教育構想していた伊藤博文は谷に改革依頼応じた谷は皇室藩屏になることを目指し華族の子教育推進軍人養成に力を注いだ。また将来議会政治にも目を向け華族天皇忠誠尽くし独立した勢力として議会公平に政治活動していく構想考え軍人だけでなく政治外交にも役立つ多様な人材育成目指した。華族有志青年会設立議会活動する人材育成一環である。谷が学習院去った後も華族青年会改名し華族方会結成、谷や多く華族引き付けて議会備えていった。これらの功績認められ7月華族令制定される子爵叙せられ、翌明治18年1885年)の内閣創設により第1次伊藤内閣初代農商務大臣就任し政治家に転身した。ただし、明治22年1889年)に予備役へ編入されるまで現役軍人としての活動続けていた。 一方四将軍派は陸軍薩長藩閥主流である状態に反発し、軍の人事組織案などに口出しして軍で活動再開、谷も四将軍派の1人として山縣大山巌桂太郎川上操六主流派対立軍事方針とそれに伴う外交巡り衝突した前述の谷の農商務就任伊藤四将軍派の関心を得るための人事であり、天皇も谷の閣僚登用望んだ事情から成り立っていた。伊藤井上馨政治家主流派軍拡と清への強硬姿勢反対三浦軍縮案に傾いていた。ただ、陸軍紛議呼ばれる明治19年1886年)の対立では谷はヨーロッパへ外遊中だったため関わっておらず、主に三浦大山主導権争い終始勝利した大山により四将軍派は軍から追われ支持基盤だった軍事研究団体月曜会明治22年解散させられた。 谷には左遷罷免され三浦曾我違い報復人事無かったが、陸軍政治関与否定的だった児玉陸軍大学校校長になり、教育通して四将軍派の影響力は軍から排除された。以後、谷は政治本格的に関わっていくようになる

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