高瀬の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
2月26日、越山の3個小隊は征討軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3個小隊および岩切・児玉らの3個小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。これに対し征討軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断に基づき、三好少将指揮の第2旅団を基幹に次のように部署を定めた。 第一陣前駆 - 乃木希典少佐(4個中隊) 中軍 - 迫田大尉(2個中隊) 後軍 - 大迫大尉・知識大尉(2個中隊) 第二陣予備隊 - 長谷川中佐(4個中隊) 山鹿方面守備隊 - 津下少佐(3個中隊) 応援(総予備隊) - (2個中隊、1個大隊右半隊) 26日午前5時、前衛の乃木隊は石貫を発ち、菊池川を渡河して薩軍右翼の越山隊を強襲する。これに後衛の知識大尉指揮の1個中隊も加わった事で正午には越山隊は植木方面に敗走する。乃木の第14連隊はこれを猛追し木葉を経て田原坂上まで進出、乃木は第2旅団長の三好に田原坂の確保を具申するが、三好はこれを認めず後退を指示。この判断が、後々征討軍に苦戦を強いることになる。 この頃、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬および高瀬に進撃しつつある征討軍を挟撃する計画でいた。 右翼隊(山鹿方面) - 桐野利秋(3個小隊約600名) 中央隊(植木・木葉方面) - 篠原国幹・別府晋介(6個小隊約1,200名) 左翼隊(吉次・伊倉方面) - 村田新八(5個小隊約1,000名) 薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。中央隊は田原坂を越え、木葉で征討軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。第2旅団は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦が行われた。 午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。 薩軍左翼隊は菊池川下流より攻勢を強め、中央隊に属する西郷小兵衛の隊らと共同して邀撃してきた歩兵第8連隊と交戦し、これを退却させた。こうして劣勢ながら全体では優勢に進めてきた薩軍だが、午後2時頃になって中央隊が弾薬の欠乏を受け、左右の隊に断りもなく突然撤退を開始してしまう。援軍を得た征討軍中央諸隊はこの機を逃さず反撃に出た。西郷小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが征討軍の増援に押され、西郷小兵衛は繁根木の堤防の上で胸に被弾し戦死する。左翼隊は苦戦に陥り午後4時ごろ伊倉に退却、戦場に取り残された右翼隊は3方から攻撃を受ける羽目になり、更に南下してきた野津鎮雄少将の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、桐野の率いる右翼隊も敵わず、江田方面に退いた。征討軍側も疲労で追撃する余裕は無かった。 高瀬の戦いは薩軍中最高の野戦指揮官(桐野、篠原)が揃い踏みし、野戦で攻勢に出た唯一の戦いであった。しかし無断撤退をした篠原や、山鹿に10小隊を残置して3小隊のみ率いて戦った桐野など、その作戦指揮に問題がなかったとは言えなかった。桐野にもう1000名の兵力があれば稲荷山の奪還も不可能ではなかったという意見もある。ともかく薩軍は乾坤一擲の決戦に敗れ、これ以後は守勢に回ることになる。
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