襖と白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 03:59 UTC 版)
古来から、日本人は「白」という色を、汚れのない清らかなもの清浄なもの、神聖なものとして特に大切にしてきた。白に無限の可能性を感じ、美しさの原点でもあった。 古代から麻や楮の繊維から衣料を作ったが、特に楮の皮の繊維は「木綿(ゆふ)」と呼ばれ、剥いだ樹皮の繊維を蒸した後、水にさらして糸状に精製したものである。この木綿で織った布を白く晒したものを白妙と呼び、日本人の白さに対する感覚の原点と言える。清らかな冷たい水の中を幾度もくぐらせて、何度もさらすことによって、身を浄めるようにして得られた、美しく白い繊維の木綿の白さに神聖なものとしての感情が移入されている。木綿は「ぬさ」とも呼ばれ、幣または幣帛という漢字が当てられている。 木綿は、神を招来するための祭具であり、神の座の飾りでもあった。神前で舞う巫女の持つ榊の小枝や、神に捧げる若竹や篠などを用いた斎串に付けたり、しめ縄に垂(四手)として飾り、神聖な領域を示す結界の象徴として用いてきた。木綿は楮の皮の繊維からつくり、紙もまた楮の繊維からつくる。和紙が普及する奈良時代には、木綿に代わって紙が幣の座を占め、どこの神社も紙の幣帛で飾られるようになった。 和紙の普及に伴い、奈良時代には木格子の両面に和紙を張った衝立障子が用いられ、平安時代には衾障子が用いられるようになっている。障子は古来間仕切りの総称として用いられたが、「障」はさえぎる、へだてるの意がある。障子は神聖な「奥」への視界をさえぎり、さらには物の怪や邪霊を防ぎ、風や冷気をさえぎる。衝立障子や屏風、帷そして衾障子には、木綿で織られた白妙や麻・絹そして紙を張ったが、神聖な場所としての結界として、聖域を邪霊から守り防ぐ意味から、清浄で神聖な「白」が張られた。そして、寝具として身を包む衾も清らかな白が用いられた。 『類聚雑要抄』(るいじゅうざつようしょう)所収の永久3年(1115年)藤原忠実の東三条殿の寝殿しつらえ図面によると、すべての障子には絵画も唐紙紋様もない「地・白」と記されている。随身所のしつらえ立面図などには、すでに障子の表面に「襖」という文字が記され、「襖類何レモ白」と記されている。襖に白鳥の子を張るという伝統は今日にも引き継がれており、格式の高い料亭や旅館にも使われており、皇居の和室の襖も白の鳥の子が張られているという。 古代以来の日本人の白に対する神聖性とは別に、仏教伝来と共に対局の金色燦然とした「荘厳」といわれる飾りの聖性を獲得していった。仏教における祭壇で、黄金の光背を放つ金色燦然とした金銅仏が安置され、きらびやかに彩られた欄間などの装飾によつて、空間全体が極楽浄土を暗示している。古代の神道の清浄な「白」に対す聖性に対して、光り輝く黄金色の新しい聖性は、古代の日本人に大きな価値観の変化をもたらした。仏教の影響は、神道の拭い清める白の神聖性と、白の装飾性から、仏像伽藍のような、より立派により華やかに装飾するという加飾性を大きくしていった。 襖の原型である衝立障子や屏風そして押しつけ壁にも、唐絵が描かれるようになり、九世紀中頃には大和絵が描かれるようになった。鎌倉・室町時代に寝殿造から書院造へと移行し、江戸時代に書院造は武士階級の住宅様式として完成していった。初期の書院造りの特徴は、接客対面の儀式の場としての書院を、権力の象徴として、襖障子と張り付け壁を連続させて、その全面を金地極彩色の金碧障壁画で飾り立てた。織田信長の安土城は、殿中が金箔で光り輝いていたという。
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