襖障子(ふすましょうじ)の誕生
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「板戸」の記事における「襖障子(ふすましょうじ)の誕生」の解説
詳細は「襖」を参照 清涼殿に有名な「荒海障子」があった。この唐風の異形の怪人を描いた墨絵の障子は、衝立て障子ではなく、引き違いの障子、すなわち襖障子であったと見られている。 『枕草子』にも 「清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげな・・・」 とある。 また江戸時代の『鳳闕見聞図説』には、明らかに引き違いの襖障子として、「荒海障子」が描かれている。この唐絵の裏面には、宇治の網代木に紅葉のかかった大和絵が描かれていた。 これが資料的に確かな、最古の引き違い戸の襖障子である。 この「荒海障子」すなわち、襖建具の誕生の年代を、各資料から推測してみたい。 『拾遣集』に 「寛和二年(986年)清涼殿のみしょうじに網代書けるところ・・・」 とあり、九八六年以前から、存在していた事になる。 九七九年成立の『落窪物語』に 「隔ての障子をあけて出づれば、閉すべき心もおぼつかず」 「中隔ての障子をあけ給ふに」 などとあるから、へだての障子は襖障子と解釈できる。 この頃には、一般の貴族の邸宅にも、引き違いの襖障子があった事になり、清涼殿の、みしょうじすなわち「荒海障子」はこれ以前に存在していたと考えられる。 『歌仙家集本貫之集』の承平六年(936年)春の歌に 「右大臣藤原仲平おやこ同じ所にすみ給ひける、へだての障子」 とある。これは間仕切りとしての障子の使用である。嵌め込み式の板戸よりも、引き違いの襖障子の方が自然である。これに従えば、九三六年以前に、引き違い襖障子が有ったことになる。 『扶桑略記』に仁和四年(888年)宇多天皇勅して、巨勢金岡(こせのかなおか)に弘仁年間(810~823年)以降の詩文にすぐれた儒者の影像を、御所の障子に描かせたとある。 御所南廂の東西の障子とあるが、衝立て障子であったか、襖障子であったかは定かではない。 巨勢金岡の経歴は不詳ながら、絵の達人で大和絵の創始者とされており、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いている。 一方、紫宸殿の母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」があった事は前に述べた。 「賢聖の障子」の成立の確かな資料は、『日本紀略』延長七年(929年)の条に、 「少内記 小野道風をして紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。先年道風書く所なり」 とあり、この以前から存在していたことになる。 書き改めるには少なくとも十年以上の歳月を経て、顔料の劣化や色醒めがあったと考えられるから、延喜年間(901~914年)には作成されていた事は間違いない。 「賢聖の障子」は、嵌め込み式の板壁に絹布を張ったものである。 東西各四間の柱間ごとにそれぞれ四人ずつ合計三十二人の賢聖の像を描いたものであった。 そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたという。 この「障子戸」が開閉式の障子の最初とみられているが、一説によると扉形式で、引き違い戸ではなかったともいう。しかしながら、室礼(しつらい)としての「賢聖の障子」は、取り外される事が前提の嵌め込み式である事を考えると、出入口として設けた「障子戸」が、固定式の扉であっては都合が悪い。 『江家次第』によると、 「北御障子(賢聖の障子)は、近頃の慣行では、公事の日を除いて取り外している」 とある。可動式の(取り外し可能な)板壁の建具技術は、湿度の高い日本の風土から必然的に生み出された工夫ではあり、唐様式にはない実に革新的な建具技術であった。 敷居と鴨居にそれぞれ一本の樋(溝)を設け、鴨居の溝を敷居の溝よりも深く彫る事によって建具を落とし込み、必要に応じて取り外すことができるように工夫された。技術的には、固定式の壁や扉様式建築に比較し、革新的なものであった。 更に樋を二本彫り引き違いにする事は、技術論的には類似技術であり、革新的技術の応用に過ぎないと考えられる。このように技術論的に考察すれば、「賢聖の障子」と同時に立てた「障子戸」が引き違いの襖障子であったと考えられる。 『日本紀略』延長七年(929年)の条の、 「紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。」 の記述から、「賢聖の障子」と、同時に立てた「障子戸」すなわち襖建具の誕生の年代は、延喜年間(901~914年)であると推測される。
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