物語の出できはじめと、建具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
「物語の出できはじめの親なる『竹取の翁』」 という表現で、『竹取物語』が歴史的に最初の物語文学である事が、『源氏物語』の中に語られている。『竹取物語』は、作者不詳で成立年代も未詳だが、900年頃より以前の成立とされている。『竹取物語』は、その形態は求婚物語であるが、その事は措く。 「いまは昔、竹取りの翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり。」 この竹取の翁が、かぐや姫を竹のなかから見つけだす所から物語は始まり、そののち、竹のなかより黄金を見つけること度重なり、だんだんと物豊かになり、ついに長者となって建てた邸宅のしつらいは、贅を尽くしたものとなった。 「うちうちのしつらいには いうべくもあらぬ綾織物に絵をかきて間まいに張りたり」 とある。「しつらい(室礼、舗設)」とは、元来晴れの儀式や請客饗宴の日に、寝殿の母屋や廂(ひさし)に調度を整え、飾りつける事をいう。当初は、天皇の御座所を指したらしい。やがて、寝殿造りの貴族の邸宅にも、室礼が設けられるようになった。 『竹取物語』の描写によれば、 「綾織物に絵をかきて間毎に張りたり」 とある。間毎つまり部屋ごとにとなると、間仕切りの障子と考えられ、母屋と廂の柱間の板壁だけとは考えにくい。 後世の作ながら、「竹取り物語図」や奈良絵本「竹取り物語」では、引き違いの襖や舞良戸などが描かれている。 大広間形式の寝殿造りの、内部空間を間仕切る建具の発明は、マルチパーパスの大きな内部空間から、特定の機能目的を備えた少空間への分離独立へ展開していく、大きな契機であり、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な建築様式の革新であった。 嵌め込み式の障子(副障子)と引き違いの障子とは、ほぼ同時期の発明と考えると、『竹取物語』の成立時にはすでに一部の上流階級の邸宅には、引き違いの襖があった事になる。傍証ながら引き違いの襖障子の誕生年代は、仁和年間(884~888年)まで遡ることが可能と思われる。 『万葉集』の中に、「衾:ふすま」と「引き手」を懸け言葉に使用したと思われる柿本人麿の歌がある。 「衾道乎 引手乃山爾 妹乎還而 山往者 生跡毛無」 (ふすまみちを ひきてのやまに つまをかえして やまじをいけば いきたここちもなし) この歌は、人麿が亡き妻をこの地に葬って(土に還して)、山路を帰る時の侘しさはかなさを歌ったものであるという。 この歌を資料的に採用すれば、万葉集の成立は771年頃である。人麿の活躍年代から推測して大宝律令(701年)制定の前後にこの歌が詠まれたとすると、その時代にごく限られた所、例えば御所の衾所(ふすまどころ寝所)などに「衾障子」があったと推測される。このごく限られた所にしかなかった「衾障子」に憧れて、あえて歌に詠みこむ事をしたのではないかとも想像できる。しかしながら、この歌の解釈にはさまざまな異論もあるようで、襖障子の誕生を一気に百数十年も遡るのは、大変魅力的ではあるが、やや冒険的であるかも知れない。
※この「物語の出できはじめと、建具」の解説は、「板戸」の解説の一部です。
「物語の出できはじめと、建具」を含む「板戸」の記事については、「板戸」の概要を参照ください。
- 物語の出できはじめと、建具のページへのリンク