被爆と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 04:17 UTC 版)
太平洋戦争中には機能の拡大強化が図られ、1943年(昭和18年)軍需省中国軍需監理部が置かれて以降、軍需産業強化が図られることになる。ただ1945年(昭和20年)には空爆の激化により製造停止、保管していた物資も県西部全域に点在疎開しており、終戦間際には空き家同然となった。職員約250人は己斐国民学校に疎開駐屯し講堂で作業をしている。 同年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆し、爆心地から3.21kmに位置していたものの、従業員自体少なかったため人的被害は微小だった。ただし学徒動員により広島女子高等師範学校生徒約220人など数校の生徒達が被爆している。被爆当日から、船舶司令部隊(暁部隊)により、被爆者の収容施設として利用される。被爆後、市内の陸軍病院へ物資を供給している。しかし、戦後はそれら備蓄物資がどうなったか不明な点が多く、一部では有力者が回収し転売したとする説もある。 1946年(昭和21年)、搗精工場の敷地が専売公社の所有となる。食肉処理場は広島糧工が国より施設を借り受け食品生産を行い、のち1949年(昭和24年)旧食肉処理場は松尾糧食(現カルビー)の製菓工場として利用される。1977年(昭和52年)、旧缶詰工場は中国財務局に移管される。 1982年(昭和57年)、旧缶詰製造工場の一部を広島市郷土資料館として再利用することが決定する。1985年(昭和60年)、広島市重要有形文化財に指定。
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被爆と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 16:50 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下。爆心地から360mに位置した。当時、宿直行員6人・女子行員12ないし3人いたものの全員死亡したため、当時の詳細状況は不明である。その他、通勤途中の者を含めると帝銀広島支店内で計32人被爆している。建物自体は、爆風により屋根の殆どが落ち、内部も殆ど崩壊、北西部の外壁が吹き飛ぶほど大破し、天井屋根のかなりの部分が崩壊し内部は消失し、全体の八割近くが損壊した。なおアメリカモスラー社(英語版)製の大金庫は無事だったため現金や帳簿類は焼失を免れており、この被爆に耐えた金庫はアメリカの新聞紙面を賑わせた。 被爆2日後にあたる同年8月8日には日銀広島支店内に他の銀行とともに仮拠点を構え営業を再開し、同年10月には大手町1丁目の三井物産跡に仮拠点を、1947年(昭和22年)2月に同町の旧帝銀大手町支店に移転、1948年(昭和23年)帝銀から第一銀行が分割された際には帝銀支店は播磨屋町(現中区本通・紙屋町一丁目・立町)に仮営業所を設置した。 右写真に合わせ地図を傾けたもの。赤○が旧帝銀、黒○が旧日銀、×が爆心地。 爆心地付近から東方向を望む。左地図と位置関係を参照。写真中央下を横断する大通りが鯉城通り(左地図の緑)、その上の写真中央付近を横断する通りが並木通り(左地図には描かれていない)。 現在の中区吉島付近から北方向を望む。写真中央やや右を縦断する太い道が鯉城通りで、その一つ右側の通り沿いの一番上部にある白色の建物が旧帝銀。 そしてこの建物は1950年(昭和25年)復旧を終え、帝銀支店はこの地で営業を再開した。1954年(昭和29年)元の三井銀行広島支店に変更、1962年(昭和37年)老朽化に伴い支店社屋は紙屋町へ移転する。 その後は三井銀行本店がここを所有し賃貸物件として用いられており、広島銀行が紙屋町の本店を新築するにあたり工事期間中に仮の事務所として、のち農林中央金庫広島支所も店舗新築にあたりここを仮の店舗として利用している。
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