被爆と再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:11 UTC 版)
太平洋戦争中、局面の悪化とともに活動を中止しており、当時の排球部部員の出征状況は不明。 1945年(昭和20年)、広島市への原子爆弾投下により当時爆心地から約2.0km強に位置した広島専売局は、6日間燃え続け7割方を焼き尽くし、従業員のうち即死者1人を含む40人死亡、800人近く(うち局員は600人ほど)が重軽傷を負った。なお、戦中における専売局の重要度から局員は職域義勇隊として市内で作業することなくこの地で全員働いており、排球部部員もここで被爆しうち1人が死亡している。 戦後1946年(昭和21年)、一人の工員が焼け野原となった広島の地でバレーボールを一つ見つけたことがきっかけとなり「バレーをしよう」と男女共に部活動を再開した。同年秋から大会予選に出場したものの県大会1回戦も突破できないほど弱体化しており、活動費は困窮したため部員は審判のアルバイトなどで遠征費を稼いていた状況で、解散の危機が迫っていた。 1949年(昭和24年)、『広島地方専売局』から『広島専売』に名称変更。1953年(昭和26年)当時の宿敵であった帝人三原を全国実業団選手権大会県予選で降し、ようやく全国大会に初出場した。1955年(昭和30年)の同大会では、メンバーギリギリの9人で優勝候補筆頭の日本鋼管を破り、ベスト4入りし名声を高めた。 また、部員は当時レベルが高く全盛時代だった地域のクラブチームにも参加しており、1952年(昭和27年)の第1回全日本都市対抗優勝大会では、芸陽クラブに主力選手を送り3位となっている。
※この「被爆と再開」の解説は、「JTサンダーズ広島」の解説の一部です。
「被爆と再開」を含む「JTサンダーズ広島」の記事については、「JTサンダーズ広島」の概要を参照ください。
- 被爆と再開のページへのリンク