被爆から戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 23:55 UTC 版)
「佐伯敏子 (反核運動家)」の記事における「被爆から戦後」の解説
1919年(大正8年)12月24日、和紙作りを営む家に、兄2人と姉3人の下に四女として誕生した。1927年(昭和2年)には妹が誕生した。1939年(昭和14年)に結婚して佐伯姓となり、翌々年の1941年(昭和16年)に長男が誕生した。太平洋戦争の開戦後、1943年(昭和18年)に夫が中国へ出征した。後に佐伯は長男を広島市郊外の安佐郡伴村字大塚(後の広島市安佐南区)にある姉の嫁ぎ先に疎開させ、家庭の事情などで広島市白島九軒町にあった夫の自宅を離れ、広瀬元町の母の元で生活していた。 1945年(昭和20年)8月6日、佐伯は長男に逢うために姉の家を訪ねていた。同日、広島市に原子爆弾が投下。姉の家は爆心地から10キロメートル離れていたために佐伯は直撃を避けられたが、母と夫の家はいずれも爆心地近くであったため、被害に遭った家族や親族たちを捜して、まだ火の海となっている市内の爆心地を駆け回った。この際、まだ生存している重傷者たちが無傷の佐伯に助けを求めたが、家族を捜す佐伯は彼らを見捨てざるを得なく、大きな後悔を残すこととなった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者たちの遺体を踏みつけるしかなく、このときの足の感触はその後も10年以上にわたって佐伯の心を苦しめることとなった。この40年後にも当時のことを「足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした」と振り返っている。 日本国外にいた夫は被爆を免れたものの、直撃を受けた兄2人や妹はその後に佐伯の目の前で次々に変わり果てた姿で死去し、母は首だけの姿となって翌月に発見され、加えて夫の両親、義姉(長兄の妻)、甥と姪(長兄の次男と長女)、伯父2人、伯母、従兄弟、計13人を70日間で失った。この間、佐伯の家族・親族同士の間ですら、「病気がうつる」といって原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家へ預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られることがあり、佐伯は戦争や原爆が人間の体のみならず心をも傷つけることを見せつけられた。 佐伯自身も被爆直後に入市したことで、残存放射能で被曝(入市被曝)しており、一時的に体調不良に見舞われたものの、後に回復。終戦後の同1945年末に復員した夫、1947年(昭和22年)に誕生した次男たちと共に広島での生活を続けた。しかし、やがて入市被曝による原爆症が本格化した。歯がすべて抜け落ち、28歳にして総入れ歯となった。白血球減少にも見舞われ、体重は28キログラムにまで落ちた。当時はまだ被爆者健康手帳による医療扶助もなく、収入も少ないために通院治療も困難であった。1953年(昭和28年)には三男を身ごもり、医師の猛反対を押し切って出産した。しかし医師の危惧通り、出産で体力を消耗した佐伯は、体内の臓器のほとんどががんに侵された。卵巣摘出や胃切除の手術も受けた。後に三男は当時の母の病状を、「母の顔がお化けのようになった」と語っている。 1955年(昭和30年)には、自分の命が長くないと見て、子供たち宛ての遺書を書き遺した。原爆投下日の8月6日より執筆を始め、完成には3年の月日を要した。
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