被爆からその死まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:07 UTC 版)
1945年8月6日。この日、中国地方巡回公演に備えて桜隊のメンバー8名と広島市堀川町の高野邸に滞在していた丸山は、原爆の投下に遭遇した。高野邸は爆風で倒壊し、命からがら瓦礫からはい出した丸山だったが、逃げる途中で倒れ意識を失ったところを救助される。最初は鯛尾島の救護所にいたが、比較的ケガが軽いと見做され、小屋浦国民小学校に移送される。(首を梁に挟まれ、かなりの重傷を負っていた)8月10日に桜隊を案じて東京から広島入りした八田元夫と槙村浩吉が、鯛尾で丸山が書いたメモをつてに小屋浦を訪れ、劇的な再会を果たす。その後、満身創痍の状態で電車を乗り継ぎ厳島の存光寺に移る。(丸山はケガの激痛で電車の通路で横になっていた)存光寺に到着後、槙村浩吉と珊瑚隊のメンバーが被爆地から仲間五人の骨を発見。遺骨を前に丸山は男泣きに泣いたという。同時に、原爆症による高熱、しゃっくり、強度の食欲不振、下痢に悩まされた。深夜、身体が熱いと言っては、裸で井戸水をかぶることもあった。8月15日の玉音放送を聴き、生死不明のままである残りの仲間の身を案じたまま、翌8月16日午後10時20分死去した。44歳であった。なお、広島行きをともにし即死を免れた園井、高山象三、仲も、丸山の死の直後に同様の症状により相次いで死亡している。被爆地の高野邸は爆心地からわずか700メートルしか離れていないことから、丸山らは致死量の放射線を浴びていたと考えられる。
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