被爆 - 原爆歌人、平和運動家として
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「正田篠枝」の記事における「被爆 - 原爆歌人、平和運動家として」の解説
1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から1.5キロメートルの距離にあった広島市中区平野町の自宅で被爆。 1946年(昭和21年)、被爆当時の情景、自らの体験、親戚・知人・友人たちの悲惨な被爆の様子を数々の短歌に詠んだ。師の杉浦翠子は、被爆の情景をリアルに描写したそれらの短歌を認め、自作の歌誌『不死鳥』7号に「唉! 原子爆弾」と題して39首を発表した。 1947年(昭和22年)、『不死鳥』掲載の歌を原歌とした歌集『さんげ』を極秘に出版(出版時期には諸説がある)。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲を受けず、手渡しで親類や知人に配布された。この際、弟の誠一はかつて自分の論文についてアメリカ陸軍防諜部隊の厳しい取り調べを受けた過去があるため、原爆の歌集など出版すれば死刑は免れないと忠告したが、篠枝の出版の意志は固かった。GHQの検閲を恐れて印刷を引き受ける印刷所がなかったため、印刷は広島刑務所で行なわれた。同刑務所の印刷主任を務めていた司法技官・中丸忠雄も歌の内容を見て驚き「マッカーサー司令部に知れたら殺される」と忠告したものの、篠枝の熱意に負けて出版を引き受け、一般には頒布せずに被爆者にのみ秘密裏に配布という条件のもと、150部のみ印刷された。後に出版される『耳鳴り』(後述)の手記にも、GHQの検閲が厳しく、発見されれば必ず死刑といわれたが、死刑覚悟で出版したとの記述がある。 私生活では1948年(昭和23年)に再婚して次男をもうけるが、同年に次男を夫に託して離婚。1952年(昭和27年)、前年に死去した父の治療費や生活費のために割烹旅館を開業した。 1953年(昭和28年)、原爆傷害調査委員会の検査により癌の徴候が確認され、数年後には原爆症の後遺症が現れ、原爆病院へ入退院を繰り返す身となった。この頃より篠枝の歌は、後述の「かりそめの貧血症なればよし原爆症と呼ばれたくなし」のように、自身の病気の方向へと内向していった。 1959年(昭和34年)には病身に鞭を打ち、第5回原水爆禁止世界大会に参加。栗原貞子、前田とみ子らとともに「原水爆禁止広島母の会」を結成し、1961年(昭和36年)から機関紙『ひろしまの河』を発刊を開始。同紙第1号には、篠枝は「私の苦悩と寂莫」と題し、平和を望むという当然の行為が侮蔑されていることを苦悩する文章を寄せている。しかし1963年(昭和38年)の原水爆禁止世界大会の内部分裂の影響を受け、篠枝たちの会も組織分裂を起こし、篠枝は苦悩の日々を送ることとなった。 1962年(昭和37年)、『さんげ』の再録およびその後の新作をまとめた『耳鳴り』が待望の出版。岩波書店や筑摩書房に断られ続けた末、平凡社からの出版であった。短歌以外にも詩、手記、童話で構成されており、原爆の恐怖と悲しみを子供に伝えるために著した童話『ピカッ子ちゃん』や、被爆後の篠枝の生活と闘病の記録も盛り込まれた。
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