被爆 - 原爆歌人、平和運動家としてとは? わかりやすく解説

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被爆 - 原爆歌人、平和運動家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 22:12 UTC 版)

正田篠枝」の記事における「被爆 - 原爆歌人、平和運動家として」の解説

1945年昭和20年8月6日広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から1.5キロメートルの距離にあった広島市中区平野町自宅被爆1946年昭和21年)、被爆当時情景、自らの体験親戚知人・友人たちの悲惨な被爆様子数々短歌詠んだ。師の杉浦翠子は、被爆情景リアルに描写したそれらの短歌認め自作歌誌不死鳥7号に「唉! 原子爆弾」と題して39首を発表した1947年昭和22年)、『不死鳥掲載の歌を原歌とした歌集『さんげ』を極秘出版出版時期には諸説がある)。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲受けず手渡し親類知人配布された。この際、弟の誠一はかつて自分論文についてアメリカ陸軍防諜部隊厳し取り調べ受けた過去があるため、原爆歌集など出版すれば死刑免れない忠告したが、篠出版意志は固かった。GHQ検閲恐れて印刷引き受け印刷所がなかったため、印刷広島刑務所行なわれた。同刑務所印刷主任務めていた司法技官中丸忠雄も歌の内容見て驚きマッカーサー司令部知れた殺される」と忠告したものの、篠熱意負けて出版引き受け一般に頒布せずに被爆者にのみ秘密裏配布という条件のもと、150部のみ印刷された。後に出版される耳鳴り』(後述の手記にも、GHQ検閲厳しく発見されれば必ず死刑といわれたが、死刑覚悟出版したとの記述がある。 私生活では1948年昭和23年)に再婚して次男をもうけるが、同年次男を夫に託して離婚1952年昭和27年)、前年死去した父の治療費生活費のために割烹旅館開業した1953年昭和28年)、原爆傷害調査委員会検査により癌の徴候確認され数年後には原爆症後遺症現れ原爆病院入退院を繰り返すとなったこの頃より篠の歌は、後述の「かりそめの貧血症なればよし原爆症呼ばれたくなし」のように、自身病気方向へと内向ていった1959年昭和34年)には病身に鞭を打ち第5回原水爆禁止世界大会参加栗原貞子前田とみ子らとともに原水爆禁止広島母の会」を結成し1961年昭和36年)から機関紙ひろしまの河』を発刊開始。同紙第1号には、篠は「私の苦悩と寂」と題し、平和を望むという当然の行為侮蔑されていることを苦悩する文章寄せている。しかし1963年昭和38年)の原水爆禁止世界大会内部分裂影響を受け、篠たちの会も組織分裂起こし、篠苦悩の日々を送ることとなった1962年昭和37年)、『さんげ』の再録およびその後新作をまとめた『耳鳴り』が待望出版岩波書店筑摩書房断られ続けた末、平凡社からの出版であった短歌以外にも詩、手記童話構成されており、原爆恐怖悲しみ子供伝えるために著した童話『ピカッ子ちゃん』や、被爆後の篠の生活と闘病記録盛り込まれた。

※この「被爆 - 原爆歌人、平和運動家として」の解説は、「正田篠枝」の解説の一部です。
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