第四期:中村竹四郎時代 昭和5年(1930)~昭和35年(1960)
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「便利堂」の記事における「第四期:中村竹四郎時代 昭和5年(1930)~昭和35年(1960)」の解説
伝三郎病没後を引継いだのが、四兄弟末弟の四男竹四郎である。戦時中及び戦後しばらくの苦難の中で様々な事業を展開する。三人の兄たちが創り上げてきた便利堂の基礎を最大限に生かし、更なる事業展開を推し進めていったのである。便利堂の古美術複製制作の技術力は皆の周知するところであることから、昭和3年(1928)に「貴重図書影本刊行会」を発足した。これは日本の古典研究に大きな寄与をもたらしたのだった。コロタイプ印刷による複製の緻密さだけでなく、用紙や装幀に至るまで原本を彷彿とさせることを主眼としていたのだが、その出来栄えが各研究者の目に留まり、会として多くの複製品制作の用命を受けた。宮内省(現宮内庁)からは「看聞日記」48巻全巻の複製を、また、静嘉堂文庫や立命館大学などからも制作依頼があり、刊行会として32種類もの複製品を制作した。さらに特筆されるのは、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)編纂の『日本名画譜仏画篇』である。昭和4年(1929)に第一輯が刊行され、残念ながら戦時中の混乱で二十輯をもって未完となったのだが、その評価は高いものであった。それを伝える大佛次郎の雑誌寄稿(雑誌「苦楽」昭和23年2月号)によると「終戦以来、アメリカ人の客がいろいろと我が家に来る。~中略~ 戦前から少しよい製版だと英国で刷ったとか独乙で刷ったと明記してあったことは僕らも知ってゐる。それが便利堂の色刷を見せると驚嘆するものである。異口同音に彼らは云う。日本でこんな印刷ができるのか。」とある。そして、便利堂として最も知られた事業のひとつでもあるのが「法隆寺金堂壁画原寸大撮影事業・コロタイプ複製事業」である。日本の文化財保存の歴史においても一大事業であり、当時考え得る最高の技術を結集して取り組まれ、その中核を便利堂が担ったのである。昭和10年(1935)に撮影された、壁画原寸大で12壁すべての箇所を精密に撮影した全紙サイズ(457×560mm)のガラス乾板は363枚にも及び、今も一枚も欠けることなく法隆寺に遺されている。また竹四郎の発案で、原色版用色分解撮影も同時に行った。そのことはのちの昭和24年(1949)に金堂が焼失し、原本の彩色を確認できなくなったうえで貴重な資料となっている。このことが理由の中心となり、竹四郎は昭和34年(1959年)に文化功労者として表彰された 。そして撮影事業からちょうど80年が経った平成27年(2015)には、これらの写真原版が国重要文化財に指定された。その理由として以下の事項があげられる。1)大型撮影機を使用し、高い撮影技術を駆使して細部に至るまで巨大な壁画の精緻な記録作成に成功した。2)後の模写作成の基礎資料として活用された。3)国宝保存法下の国直営の国宝保存事業の成果である。4)古代東アジアを代表する仏教絵画である法隆寺金堂壁画の最も高品質な写真原版である。さらに、現在にも続く便利堂の事業として、昭和11年(1939)には、大阪市立美術館開館に際し美術絵はがきなどを販売する常設店を設置、昭和15年(1940)には、東京帝室博物館(現東京国立博物館)にも常設売店を設置した。今で言うミュージアムショップの草分けである。昭和19年(1944)には、印刷と出版の兼業が許されなくなった戦時中の出版統制により、美術出版の名門として『真美大観』を刊行した審美書院など同業6社を統合して、東京に「株式会社美術書院」を設立し、竹四郎が代表者となった(戦後の昭和24年に便利堂に吸収合併)。
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