第3次リーフ戦争
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第3次リーフ戦争 | |
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戦争:スペイン・モロッコ戦争 | |
年月日:1921年6月8日 - 1927年5月27日 | |
場所:北アフリカ | |
結果:フランス共和国の参戦、リーフ共和国降伏 | |
交戦勢力 | |
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![]() Cabilas rifeñas |
指導者・指揮官 | |
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![]() ![]() Ahmed al-Raisuli |
戦力 | |
正規兵465,000名 | 民兵約15,000名 |
損害 | |
31,000名 | 15,400名 |
第3次リーフ戦争(だい3じリーフせんそう、3rd Rif War)はスペイン・モロッコ戦争と呼ばれる一連の紛争の一つで、スペイン王国とリーフ地方ベルベル人(リーフ族が多数)の部族国家リーフ共和国の間で行われた戦争。
概要
三度に亘るリーフ地方ベルベル人(リーフ族が多数)の反乱の中で最も規模が大きい為、単にリーフ戦争と呼ぶ場合には同戦争を指す事も多い。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に起きた戦争でもあり、「戦間期の戦争」(Interwar Period)とも呼ばれる。
初めは小規模な部族勢力に対する攻撃であったが長期戦化し、多数の兵力や戦車・航空機など新鋭兵器の投入に加え、毒ガス攻撃まで行われての大規模戦争に発展した。戦争の前半部はリーフ側が勇戦を続けていたが、フランスの参戦を招いて敗れた。
経緯
モロッコ領有問題
シモン・ボリーバルの反乱、米西戦争での敗北など立て続けに植民地を失い、国内経済も衰退していたスペインは、植民地戦争の一つの終結点であるアフリカ分割でもスペイン領サハラ(西サハラ)・スペイン領モロッコ(モロッコ北部)・スペイン領ギニア(赤道ギニア)しか得られなかった。その中で比較的有望であったのがモロッコであり、北アフリカで最も欧州大陸部に近い同地はドイツ・フランスが領有を争う中(第一次モロッコ事件、第二次モロッコ事件)、スペインもまたリーフ地方ベルベル人が居住するモロッコ北部にたびたび軍事干渉を繰り返していた(スペイン・モロッコ戦争、第1次リーフ戦争、第2次リーフ戦争)。
モロッコを切り取ろうとする争いはアフリカ分割の過程で、フランスとアラウィー朝モロッコ間で交わされたフェス条約によりフランスが大部分を獲得する一方、仏西条約にて北部沿岸部の実効支配に成功したスペインへ与えられた。このスペイン領モロッコと名づけられた植民地は、行政上はモロッコのスルタンから委任された形をとっていたが、実際にはスペイン人総督が支配を行った。
ベルベル人との対立
以前からベルベル人はしばしばスペイン・フランスに反旗を翻して来たが、部族制度が強く残るベルベル人達は団結できずに各個撃破されるのが常だった。しかしスペイン領モロッコでは第2次リーフ戦争でスペイン軍に大苦戦を強いたリーフ地方ベルベル人が台頭し始めていた。彼らに脅威を感じたスペイン政府はスペイン領モロッコの安定化の為に軍の派遣を決定、マヌエル・シルベストロ将軍率いる2万名近い軍勢を派遣した。対するリーフ地方ベルベル人はかつて植民地政府で行政官を務め、後に反スペインに転じた族長アブド・アルカリームの元で3000人の民兵を組織して迎え撃つ事になった。
戦闘
事前戦力
- モロッコに駐留するスペイン軍は本国民の兵士と、現地召集の傭兵部隊(アスカリ)からなった。本国人からなるスペイン兵部隊は機関銃や大砲など近代的装備を持ちつつも士気・錬度共に劣悪で、士官・将校の質も有能とは言い難かった。スペイン・アフリカ軍と呼ばれる精鋭部隊も存在しており、1911年以降からこの部隊はベルベル人兵士を動員するようになっている。また戦争の後半からスペイン軍はフランス外人部隊を参考にしたスペイン外人部隊を組織して前線に派遣した。彼らの半数近くは軍に参加しなかったスペイン人や南米の移民2世などからなったが、やはり4分の1は外国人から構成された。外人部隊はホセ・ミリャン・アストライによって組織され、フランシスコ・フランコにより指揮が行われた。
- リーフ軍
- リーフ軍は3000名前後の民兵隊から組織された。彼らは狩猟を行うベルベル人伝統の高い射撃能力に加え、勇猛で知られた士気の高さを併せ持っていた。更に彼らを率いたアブド・アルカリームは第一次世界大戦の戦術を学習した優れた指揮官でもあり、優れた戦いぶりを示した。戦いが部族側有利に傾くにつれ軍への志願者が増えていき、スペイン軍側は最終的には8万人を越していたと主張している。
侵攻初期
スペイン軍は初め、既に確保された地域から東を征服しようと試みたが、これは1920年にリーフ軍の抵抗で頓挫している。
続く1921年7月から8月のアンワールの戦いでは、マヌエル・シルベストロ、フェリペ・ナバーロ及びガブリエル・モラレス率いる主力軍が攻勢を開始したがアブド・アルカリーム率いる少数のリーフ軍に包囲殲滅され、13,363名の死傷者を出して退却した。指揮官シルベストロは敗走の最中に失踪、フェリペ・ナバーロは兵士と共に降伏した。
優位を得たリーフ軍はスペイン領モロッコの大都市メリリャに迫ったが、スペイン軍はスペイン外人部隊とリーフ地方ベルベル人と対立するベルベル人部族でこれを辛うじて阻止した。アンワールの大勝で名声を得たアブド・アルカリームは、1921年9月18日に占領地においてリーフ地方ベルベル人の独立とリーフ共和国の樹立を宣言し、大統領に選出された。優良な資源を持つリーフ共和国はソ連から国家として承認を受け、また物資援助を約束されるなど国家としての体制を急速に整えていった。これに対しスペインは大幅な増援を派遣して攻勢に転じたがシャウエンの戦いで再び大敗し、モロッコからの全面撤退などが検討され始めていた。
フランス参戦
当初、スペイン軍のモロッコでの苦戦をフランスは静観していたが、本格的にスペインが押され始めると、1924年5月に前線に軍部隊を展開した。これはあくまで国境警備程度の意味合いに過ぎなかったが、1925年春にフェズへの補給面の問題などからリーフ軍はフランス領モロッコに攻撃を仕掛け、フランス軍側に多くの死傷者が発生した。これに激怒したフランス政府はリーフ共和国に宣戦布告し、30万名を越す大軍を北部沿岸部から上陸させて北部モロッコに侵入した(Batalla de Uarga)。圧倒的なフランス軍の攻勢の前にリーフ軍は大きな損害を蒙り、戦力が削がれていった。
アル・ホセイマ上陸
1925年9月8日、スペイン軍はリーフ共和国の首都近辺のアル・ホセイマに上陸、フランシスコ・フランコ率いる外人部隊の奮戦で上陸に成功、その後リーフ軍の大規模な反撃を受けるが毒ガス(マスタードガス)の投下によってこれを破った(Chemical weapons in the Rif War)。
戦争終結
首都陥落などからこれ以上の継戦が難しいと判断したアブド・アルカリームは、最後の望みを掛けてテトゥアン市へ攻勢を仕掛けた。この攻撃はスペイン軍外人部隊に損害を与え、指揮官ホセ・ミリャン・アストレイを負傷させたが、もはや形勢は変わらなかった。アルカリームはそもそもの敵であったスペインではなくフランス政府に対して降伏を宣言し、武装解除に応じた。降伏の際に捕らえられていたスペイン兵の捕虜は兵士に関しては解放されたが、士官は戦争の報復として処刑されていた。
フランス政府は占領したモロッコ北部をスペインに返還する一方で、スペイン政府の要求を退けてアブド・アルカリームを死刑ではなくインド洋のフランス領レユニオンへ流刑罪にした。
関連文献
- David S. Woolman, Rebels In The Rif: Abd El Krim and the Rif Rebellion, Stanford University Press, 1968
関連項目
- ペレヒル島危機
- スペイン
- モロッコ
- スペイン・モロッコ戦争
関連作品
- 『レジョネア 戦場の狼たち』 1998年 アメリカ映画
第三次リーフ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:40 UTC 版)
欧州の主要国の中でスペインは二度の世界大戦に唯一参加しなかった。そのうち第一次世界大戦については外交上の利害関係や、折からの工業力不足による軍の弱体化を危惧してのことであった。大規模な戦争に不参加であったことは、スペイン陸軍の作戦研究に深刻な打撃を与えた。その象徴ともいうべき事件が第三次リーフ戦争である。 同戦争は北アフリカに居住するリーフ族(ベルベル人の一部族であった)の居住区に、2万5000名のスペイン軍が侵攻を開始したことに端を発している。米西戦争などで海外領土を失い続けていたスペイン王アルフォンソ13世は、自国の威信を保つためにもモロッコ地方の統治を強化しており、その一環として野放しになっていた小部族の支配に乗り出したのである。リーフ族長アブド・アル・クリムはスペイン軍に警告を下すが、わずかに3000名しか動員できなかったリーフ族を過小評価したスペイン軍はアメクラン川を渡河し、首都アンワールへと進軍する。だが砂漠の奥地に進軍したスペイン軍は、アブド・アル・クリム自ら率いる数百名の兵団に後方の拠点を次々と奪還され、補給不足に陥ってしまう。スペイン軍は首都攻略を後回しにして2度に亘る大規模な突破部隊を差し向けるも、リーフ族が築いた塹壕の前に損害だけを出して撃退された。第一次世界大戦に無関心だったスペインは、塹壕の価値を半ば理解していなかったのである。この時点で1万人近いスペイン兵が失われていたが、リーフ兵はわずかに30名の戦死者しか出していなかった。 補給を失ったスペイン軍1万5千名はアンワールを諦めて退却を開始するが、道中でリーフ軍の攻撃を受けたことから退却は敗走へと代わり、やがて隊伍を乱しての壊走となった。この戦いで無事に本国へ逃げ帰れたスペイン兵士はわずかに半数程度で、1万2千名の戦死・戦傷者と数百名の捕虜を出し、指揮官のシルベストレ将軍も退却中に行方不明となった。対するリーフ軍の死者は100人足らずであったという。このアンワールの戦いでの敗因は、スペイン軍の装備が工業力の不足により陳腐化していたことに加え、給与の問題などから兵士たちの士気や錬度が著しく悪化していたことが挙げられる。また、陸軍が現代的な戦争に対して全く無知であったことも致命傷となった。 予想以上の圧勝を前に、勢い付いた3000名のリーフ軍は逆に侵攻を開始、スペイン領モロッコの東部を占領してスペイン軍の総司令部のあるメリリャ市へと迫る。瀬戸際に追い詰められたスペイン軍は、敗残兵の再編や本国からの増援の派遣はもちろん、外人部隊や民兵部隊までもを掻き集めて抵抗した。空軍の大規模な支援も始まり、数万人のスペイン軍は辛うじてリーフ軍のメリリャ攻略を防いだ。だが進軍を止めるので精一杯のスペイン軍に、奪われた領土を取り戻す気力は残されていなかった。スペイン国内では和平派と抗戦派が内乱寸前まで対立し、最終的に和平派のプリモ・デ・リベラ将軍が軍事政権を敷いて混乱収拾に乗り出し、独立を宣言していたリーフ共和国と講和を進め始める。しかし途中で強硬派に転じたデ・リベラは、地中海の不安定化を嫌った隣国フランスの支援を受けて反撃を開始する。スペイン軍も信頼性の低いスペイン人兵士に代わり、外人部隊やベルベル人傭兵を軍の主力に据え、リーフ兵と互角に戦いうる錬度を得ようと試みていた。さらにフランス軍の支援で戦車の投入も開始するなどの努力もあり、一時的にリーフ軍の撃退に成功した。 しかし一方のリーフ共和国も、他のベルベル人部族を統合して軍備を強化しており、またモロッコ西部の諸部族もスペインに反旗を翻してリーフ側に付いたことで、その戦力は7万名にまで膨れ上がっていた。リーフ軍の攻勢が始まるとスペイン軍は再び敗北を重ね、シャウエンの戦いで大敗を喫して1万2000名の被害を出して敗走した。スペイン軍にとって退却を行うことすら、迫り来るリーフ軍の前には難事で、40台の輸送トラックの車列が伏兵によって一気に破壊されるケースもあった。それでもスペイン軍は3万名の残存に成功し、この功績から指揮官であったフランシスコ・フランコが少佐に昇進している。 スペイン軍の不甲斐ない戦いに、自国の北アフリカ領まで戦火が飛び火するのではないかと危惧したフランス政府は、自軍の直接介入を決断する。とはいえ当初は一部部隊を越境させただけで自国領内との国境地帯を占拠するのみと、全面的な軍事介入は控えていた。しかしリーフ軍が補給を巡っての戦いで若干の被害をフランス軍に与えたことで、これが逆にフランス軍の本格的な参戦を招く結果となる。フランスは仏領モロッコの駐留軍全体6万名に加え、ライン川に展開する本国軍から10万人を抽出した16万の大軍をもって進軍を開始、総指揮官には第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。名将ペタン率いるフランス軍はリーフ軍を圧倒し、これに呼応したスペイン軍も毒ガスを使用しての大攻勢でリーフ軍を破りアンワールを占領する。1925年、ようやく戦争は終結した。 この戦争で20万を越える戦力を投入し、4万名を越える戦死者を出したスペイン陸軍は威信を大きく失った。軍備は大幅に削減され、軍部が不満を抱き、国内政治は混乱して革新勢力が台頭し始めていく。この混乱は最終的に人民戦線政府の成立と軍部の反乱という最悪の事態に結び付いてしまう。 スペイン内戦の勃発は、第三次リーフ戦争の終結から4年後のことであった。
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