競走馬としての特徴・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:49 UTC 版)
「ビワハヤヒデ」の記事における「競走馬としての特徴・評価」の解説
デビューから引退まで一線で活躍し続け、短距離の1400mから長距離の3000mまで4度のレコード勝利を挙げた実績から「万能の名馬」(吉沢譲治)とも評されるが、岡部幸雄は「本質的には優れた中距離馬」であったと評している。ライターの山田康文は、ビワハヤヒデの「天賦の才」はスピードであり、長距離で活躍するために必要なスタミナは鍛錬によって後天的に備わったものであるとしている。岡部はビワハヤヒデが菊花賞を優勝した時点で、3歳時から使い詰めで2度レコード勝利を収めながらも、4歳になってクラシックを全て走り切ったビワハヤヒデの順調さは特筆ものであると評し、「数々のレースに出走し、激しい競馬を続けたにもかかわらず、この間、これといったアクシデントもなく、最後に念願のクラシックを手に入れた。こんな丈夫な馬は何千年に1頭あるかないかです」と述べている。山田雅人はビワハヤヒデが4歳秋にがっしりとした馬体に変貌し、神戸新聞杯・菊花賞を勝利したことについて、「この時(菊花賞)には春のひ弱さもなく、サラブレッドの一番充実した形の走りになっていた。重心の低さはタニノチカラを思わせ、身体の筋肉はテンポイントを思わせた」と評し、その成長力について「サラブレッドがひと夏を超してこれほど成長するのかと思い知らしめてくれた」と評している。 中央競馬史において、ビワハヤヒデは1988年の年度代表馬タマモクロスから始まり、オグリキャップ、メジロマックイーンと続いた「芦毛の王者」の系譜に連なるとされ、自身の引退により「芦毛の時代」が終わりを迎えたとされている。岡部は自身が騎乗した歴代の名馬との比較について、「中長距離では七冠馬シンボリルドルフに次ぐ存在か」との質問に対して「それぐらいに思ってる」と答え、有馬記念で敗れたトウカイテイオーとの上下について問われた際には、「テイオーは確かに強いときはビワ以上のものを感じた」としつつ、「コンスタントに走れるのはとにかく強み」としてビワハヤヒデを上位に挙げた。自身の騎手引退後に自著でビワハヤヒデの競走生活晩年を回顧した際には、「あの年に無理をさせず、十分な夏休みを与えていれば、天皇賞で故障することもなく、翌年はチャンピオンホースになれていたんじゃないかと確信している」と述べている。浜田はビワハヤヒデの性格について「厩舎では悠々と落ち着いているんですが、内面はデリケートで神経質なんです。そういう内弁慶なところがあった」と述べ、このような性格だったため関東での競馬には弱かったとしており、朝日杯・共同通信杯時はいずれも現地到着と同時に気持ちが萎縮してしまった状態での出走だったと明かしている。後に東京・中山でのGIで勝利できなかった理由についても「精神面での『弱さ』が残っていたから」と述べている。 他方、その存在感についてライターの谷川善久は「真のスターの座につけないまま競走馬生活を閉じ」「いつもレースの中心にいながら、決して物語の中心にはいなかった」と述べ、また須田鷹雄は「語るべき物語の無い馬」と評している。自身の作品にビワハヤヒデを数多く取り上げた競馬漫画家のよしだみほは「実績の割に評価が低くなってる気がする」と述べた上で、「ハヤヒデは結果的に勝ってたとかいうんじゃなくて、こいつは負けないだろうという雰囲気を漂わせつつ、本当に勝っちゃうんだから強い馬だったのは間違いないはず。そういうオーラをもってる馬って、あまりいないからね」と称えている。評論家の井崎脩五郎は「どんな状況でもよく頑張るというのが、ビワハヤヒデの特筆すべきところ」とした上で「堅実で、波瀾万丈でないぶん地味な印象を与えがちなビワハヤヒデは、ナリタブライアンが三冠を獲ったことによってなおいっそう、立ち位置が一歩下がってしまった感があるが、『15戦連続連対』はもっと大威張りしていい勲章なのだ」と賞している。
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競走馬としての特徴・評価
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「タニノチカラ」の記事における「競走馬としての特徴・評価」の解説
首を低く下げた走行フォームが特徴で、「鼻面が地面にとどきそうなほど」、「首がひざにぶつかりそうな走り」だったと評される。谷水雄三によれば、一時は兄・タニノムーティエのように追い込みを教えようとしたが、そのフォームのせいで不向きだったという。強力な先行馬として知られるようになったが、厩務員の近藤昭は「本来はデビュー当時のような差し馬だったかも知れない。もし、古馬になって、差し脚を武器とする戦法をとっておれば、兄貴と同じように、34-35秒の決め手を発揮したと思う」と述べている。 八大競走2勝という成績ながら史上最強馬として捉える者もあり、1991年に『優駿』が競馬関係者や著名人を対象に行ったアンケートでは、「最強馬部門」でシンボリルドルフ、シンザン、タケシバオーに次ぐ4位となった。また1983年に同誌が読者を対象に行った同様のアンケートでは13位になっている。前述の杉本清がタニノチカラに投票したアンケートは前者のものだが、有馬記念(優勝時)を実況した小林皓正も「21世紀に伝えたい!私のこの1頭」というアンケートでタニノチカラを挙げた。「脚が強ければシンボリルドルフに匹敵するほど強かったのではないか」という評もあったが、調教師の島崎は「いつも状態は万全といえなかった。ルドルフは別格にしても、本当は実績以上に強い馬だったと思いますよ」と評している。 日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による20世紀の名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では80位に選ばれた。また『優駿』選出による「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている。
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競走馬としての特徴・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:56 UTC 版)
「ハマノパレード」の記事における「競走馬としての特徴・評価」の解説
田島良保は、1999年に雑誌『Number』が行ったアンケートの中で、本馬を評して「馬体のバランスが素晴らしく、仕掛けたときの反応の鋭さは今でも覚えている」と語り、自身が騎乗した内の最強馬として挙げている。田島は気性の激しいハマノパレードへの対策として、仕掛け所まで馬が力まないよう、「気取った感じでフワァーッと」騎乗し、また普通とは異なる手綱の持ち方をしていたという。一方で、「もしあの馬が生まれながらの優等生だったら、あそこまで勝ち上がってはいなかったと思う」とも語り、「僕に似ていたと言えるかも知れない」としている。田島がハマノパレードで見せた騎乗感覚は、その弟弟子である田原成貴に大きな影響を与え、田原の騎乗感覚の原点ともなった。
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