発見と変転
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1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟が、ヒルベト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で、古代の巻物の入った壷を発見した。最初の発見に関しては、「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かは、もはやわからない。 ベドウィンたちは、最初に見つけた4つの写本をベツレヘムの靴職人で古物も扱っていた「カンドー」ことハリル・イスカンダル・シャヒーン (Khalil Eskander Shahin) の元に持ち込んだ。自身もシリア正教徒だったカンドーは、古代シリア語の文書かと思い、これをシリア正教会聖マルコ修道院の院長で、後にアメリカで大主教になったマー・サムエル(Mar Samuel)に見せた。サムエルは、4つの写本(『イザヤ書』 (1QIsa)、『ハバクク書註解』、『共同体の規則』、『外典創世記』)を24パレスチナポンド(現在の価値で約100ドル)で買い取った。 同じころ、ヘブライ大学考古学教授エレアザル・スケーニク (Eleazer Sukenik) とビンヤミン・マザール (Benjamin Mazar) も、ベドウィンが発見した写本(続けて発見した3つの写本)をカンドーが入手したことを知り、命の危険をおかして(当時アラブ人地区だった)ベツレヘムに赴き、1947年11月29日にカンドーから『戦いの書』、『感謝の詩篇』と『イザヤ書』断片 (1QIsb) の三つを買い取った。ここで、スケーニクは、あと4つの写本をサムエルが持っていることを知る。 1948年1月、スケーニクとマザールはサムエル・J・フェネガンと接触し、4つの写本の購入を図ったが話はまとまらなかった。サムエルは、第三者の評価によって写本の真価を知るために、アメリカ・オリエント学研究所 (American Schools of Oriental Research、略称:ASOR) の研究者だったジョン・トレヴァー (John C. Trever) に写本を見せた。トレヴァーは、写本の書体や語法がナッシュ・パピルス(1898年にエジプトで発見された紀元前1世紀のものと思われる十戒を含むモーセ五書の抜書きの断片)のそれと非常によく似ているとサムエルに告げた。1948年2月21日、トレヴァーは、サムエルの持っていた写本(イザヤ書、共同体の規則、ハバクク書註解)を撮影したが、原本はその後のインクの変質によって見にくくなり、トレヴァーの写真のほうが読みやすくなっている。 1948年4月、トレヴァーとスケーニクによって、世界に「死海周辺で古代の写本発見」の第一報がもたらされた。当時知られていた旧約聖書の最古の写本(レニングラード写本)を約1,000年さかのぼる写本の発見は古代における旧約聖書の実情を示すものであり、イエス時代のユダヤ教の実態を知ることで、キリスト教誕生に関する新事実がわかるのではないかという期待が生まれた。 1948年5月に第一次中東戦争が勃発したが、サムエル・J・フェネガンは、写本を安全のためレバノンのベイルートに移していた。この後、サムエルは、写本をベイルートからアメリカ合衆国に移し、各地の大学や博物館などに買取りを打診してまわった。しかし、そもそも本物かどうかわからないという点と、もし本物だとしたら国宝級のものであり、所有権をめぐって国家間トラブルの招来が予想されることの二点を理由に、各地の施設が購入に二の足を踏んだ。最終的に、サムエルは、1954年6月1日のウォール・ストリート・ジャーナル紙に写本売り出しの広告を出した。そこには、「売りたし。四つの死海文書。少なくとも紀元前200年ごろにさかのぼる聖書テキスト。個人・団体を問わず教育機関や宗教施設に最高の贈り物」と書かれていた。写本は、匿名の購入者によって25万USドル(現在の価値で200万ドル以上)で購入された。「匿名の購入者」は、実はイスラエル政府の意を受けたマザール教授とスケーニクの息子イガエル・ヤディンであった。こうして、イスラエルは、最初の七つの写本を全て入手することに成功した。ヤディンは、1967年の第三次中東戦争時には、ベツレヘムのカンドーの自宅から第11洞窟から出た『神殿の巻物』を回収している。 最初に出土した7つの写本は、エルサレムのパレスティナ考古学博物館(現名称:ロックフェラー博物館)に入った。同博物館は、当時フランス・アメリカ・イギリスの各国政府が共同で運営していた。ところが、1961年になって、ヨルダンが、死海文書はヨルダンの財産であると宣言、1966年には考古学博物館も国有化した。イスラエルは、1967年の第三次中東戦争の後で考古学博物館にあった死海文書を回収し、イスラエル博物館内に新しく作られた「聖書館」 (Shrine of the Book) に移した。ヨルダン政府による死海文書返還要求は、以後も繰り返されている。
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