発見と変転とは? わかりやすく解説

発見と変転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 13:31 UTC 版)

死海文書」の記事における「発見と変転」の解説

1946年終わりから1947年初めいずれか時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「ムハンマド」の意)とその従兄弟が、ヒルベト・クムランと呼ばれる遺跡遺跡自体19世紀から知られていた)の近く洞窟の中で、古代巻物入った壷を発見した最初の発見に関しては、「子ヤギ追いかけていて、洞窟中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話語られるが、どこまでが真実かは、もはやわからないベドウィンたちは、最初に見つけた4つ写本ベツレヘム靴職人古物扱っていた「カンドー」ことハリル・イスカンダル・シャヒーン (Khalil Eskander Shahin) の元に持ち込んだ自身シリア正教徒だったカンドーは、古代シリア語文書かと思い、これをシリア正教会マルコ修道院院長で、後にアメリカで大主教になったマー・サムエル(Mar Samuel)に見せたサムエルは、4つ写本(『イザヤ書』 (1QIsa)、『ハバクク書註解』、『共同体規則』、『外典創世記』)を24パレスチナポンド(現在の価値で約100ドル)で買い取った。 同じころ、ヘブライ大学考古学教授エレアザル・スケーニク (Eleazer Sukenik) とビンヤミン・マザール (Benjamin Mazar) も、ベドウィン発見した写本続けて発見した3つの写本)をカンドー入手したことを知り、命の危険をおかして当時アラブ人地区だった)ベツレヘムに赴き、1947年11月29日カンドーから『戦いの書』、『感謝詩篇』と『イザヤ書断片 (1QIsb) の三つ買い取った。ここで、スケーニクは、あと4つ写本サムエル持っていることを知る。 1948年1月、スケーニクとマザールサムエル・J・フェネガンと接触し4つ写本購入図ったが話はまとまらなかった。サムエルは、第三者評価によって写本真価を知るために、アメリカ・オリエント学研究所 (American Schools of Oriental Research、略称:ASOR) の研究者だったジョン・トレヴァー (John C. Trever) に写本見せたトレヴァーは、写本書体語法がナッシュ・パピルス(1898年エジプト発見され紀元前1世紀のものと思われる十戒を含むモーセ五書抜書き断片)のそれと非常によく似ているサムエル告げた1948年2月21日トレヴァーは、サムエル持っていた写本イザヤ書共同体規則ハバクク書註解)を撮影したが、原本その後インク変質によって見にくくなり、トレヴァー写真のほうが読みやすくなっている。 1948年4月トレヴァーとスケーニクによって、世界に「死海周辺古代写本発見」の第一報もたらされた。当時知られていた旧約聖書最古写本レニングラード写本)を約1,000さかのぼ写本の発見古代における旧約聖書実情を示すものであり、イエス時代ユダヤ教実態を知ることで、キリスト教誕生に関する事実がわかるのではないかという期待生まれた1948年5月第一次中東戦争勃発したが、サムエル・J・フェネガンは、写本安全のためレバノンベイルート移していた。この後サムエルは、写本ベイルートからアメリカ合衆国移し各地大学博物館など買取り打診してまわった。しかし、そもそも本物かどうかわからないという点と、もし本物だとしたら国宝級のものであり、所有権めぐって国家間トラブル招来予想されることの二点を理由に、各地施設購入二の足踏んだ最終的にサムエルは、1954年6月1日ウォール・ストリート・ジャーナル紙写本売り出し広告出した。そこには、「売りたし。四つ死海文書少なくとも紀元前200年ごろにさかのぼ聖書テキスト個人・団体問わず教育機関宗教施設最高の贈り物と書かれていた。写本は、匿名購入者によって25USドル現在の価値200ドル以上)で購入された。「匿名購入者」は、実はイスラエル政府意を受けたマザール教授とスケーニクの息子イガエル・ヤディンであった。こうして、イスラエルは、最初七つ写本全て入手することに成功した。ヤディンは、1967年第三次中東戦争時にはベツレヘムカンドー自宅から第11洞窟から出た神殿巻物』を回収している。 最初に出土した7つ写本は、エルサレムパレスティナ考古学博物館(現名称:ロックフェラー博物館)に入った。同博物館は、当時フランス・アメリカ・イギリスの各国政府共同運営していた。ところが、1961年になってヨルダンが、死海文書ヨルダン財産であると宣言1966年には考古学博物館国有化したイスラエルは、1967年第三次中東戦争後で考古学博物館にあった死海文書回収しイスラエル博物館内に新しく作られた「聖書館」 (Shrine of the Book) に移したヨルダン政府による死海文書返還要求は、以後繰り返されている。

※この「発見と変転」の解説は、「死海文書」の解説の一部です。
「発見と変転」を含む「死海文書」の記事については、「死海文書」の概要を参照ください。

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