欧州協力下の宇宙開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/17 08:02 UTC 版)
「フランスの宇宙開発」の記事における「欧州協力下の宇宙開発へ」の解説
米ソの宇宙開発競争が続く1960年、欧州の科学界は欧州原子核研究機構のように宇宙開発分野でも欧州の存在感を示すことのできる欧州独自の宇宙計画を策定することを呼びかけた。英国はアメリカのライセンスを利用したブルーストリークミサイルの開発を停止しており、その後この開発残余を利用してブラックナイトロケットを2段目にした衛星打ち上げロケットを使い、再突入の実験なども行う計画を立てた。英国は5600万ポンドかかるとされた費用を緩和することを考え欧州各国に共同開発を呼びかけ、1961年1月ド・ゴールは顧問団の助言に従って開発要請に同意し、ブルーストリークを初段にした3段ロケット、ヨーロッパを開発することが決まった。1962年、英国、ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダの6カ国は欧州ロケット開発機構(ELDO)の設立に合意した。同組織は各国分担でロケットの開発を進めることに決め、1段目はイギリスのブルーストリーク、2段目はフランスが開発し、3段目はドイツが開発、ベルギー、オランダ、イタリアは人工衛星、ペイロードフェアリング、誘導装置、通信施設を開発するというものであり、1000kgの積荷を低軌道に投入することを目標にした。同時にスウェーデン、デンマーク、スイス、スペインも参加した10カ国の科学界は科学的人工衛星の実現に向けて欧州宇宙研究機構(ESLO)を設立することにした。 一方で1962年にはエビアン協定に基づいてアルジェリアが独立し、フランスは1967年7月にアマギール射場を放棄することが決定し、CNESは代替射場を見つける必要が生じ、国内だけではなくブラジルやオーストラリアなども含む14の地点を調査した。赤道に近いことが良い発射場の条件であり、この点はどの場所も共通していた。赤道であれば地球の回転による効果でケネディ宇宙センターと比較して15%以上打ち上げ能力が高いとされた。CNESは報告で赤道に近く、人口密度が低く打ち上げ事故のリスクが低く、大西洋に広い間口を持つギアナを提唱した。海へのアクセスから最適な条件で極軌道に衛星を投入でき、また、サイクロンや地震の頻度も少なかった。さらにギアナは政治的安定性が高いフランスの植民地であることも重視された。フランス首相ポンピドゥーはこの提言に従い、1964年4月14日にクールーにギアナ宇宙センターを建設する省令を通達した。 フランスは1961年のヨーロッパロケット開発計画でコラリーと呼ばれる第2段を製造する必要があった。しかし軍出身で当時の長官のロバート・オービニエル(英語版)はディアマンロケットを軍が引き継ぐことを望んでいた。1967年6月、交渉の末CNESは実現のための政府の許可を得て、LRBAに液体燃料のロケットの開発を委託し、ノール・アビアシオンとシュド・アビアシオンが3段式ロケットの開発、マトラが装置殻の開発を行うこととなった。経済的理由からロケット燃料はN2O4とUDMHに改め、1段目をより長くし、3段目の能力を向上させたディアマン-Bが開発され、500kmの高度に115kgの積荷を投入できるようになった。1970年にクールー基地から行われた初号機の打ち上げは制御不良によるポゴ振動で若干の不具合が生じたもののDIAL(フランス語版)の打ち上げに成功、その後の2号機と3号機の打ち上げでPEOLE(フランス語版)、トーネソル(フランス語版)を打ち上げたものの、4号機5号機の打ち上げは失敗に終わった。ヨーロッパロケットと重複する計画の妥当性に疑問も上がり、計画は困難な状況に遭遇したものの、より強化された改良型の開発が決定され、2段目に弾道ミサイルを利用したディアマンBP-4が開発された。これは200kmの軌道に220kgまでの貨物を輸送することを可能にした。1975年に打ち上げられたスターレット(フランス語版)、カストール・ポルックス(フランス語版)、オーラの3基の衛星はいずれも投入に成功した。これは純粋な民用ロケットの最初の打ち上げとなった。 一方、ヨーロッパロケットは1964年6月にオーストラリアのウーメラ試験場で行われ、成功したものの、このときはまだドイツやフランスが計画している2,3段は研究段階にあり搭載されていなかった。しかし、ヨーロッパ計画の策定以来状況は変化しており、参加国もより強力なロケットを必要とする通信衛星打ち上げ市場にはヨーロッパロケットの能力が適合しないことを知っていた。1965年1月にはフランスが静止軌道に衛星を打ち上げるために液体ロケットの第2段を持つように仕様変更するようにELDOの参加国に働きかけ始めるが、このような新技術の開発は大きな賭けであり、打ち上げ予定が1970年とより遅れることを意味した。議論は静止軌道への到達を可能にする第4弾の開発を行うことで妥協したが、英国は予算超過とフランスの横槍に苛立ちを隠せず、ウーメラ試射場でクールー基地の代替を行うことをやめると脅し、1966年6月には37.89%の参加負担を27%に削減することを発表した。フランス製造のコラリーの初試験やその後のヨーロッパロケットの開発は信頼と自身の醸成に寄与しなかった。コラリーが初搭載されたヨーロッパロケットF6-1はコラリーが点火せず失敗し、再挑戦となったF6-2もコラリーが原因で失敗した。これらの問題を解決したヨーロッパロケットF7、F8も3段目の不具合で打ち上げに失敗した。
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