欧州での活動
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「ワシントン (BB-56)」の記事における「欧州での活動」の解説
ワシントンは本国艦隊で演習と訓練に加わり、4月7日の演習ではイギリス海軍のキング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨーク(1941年11月4日竣工)と対空演習射撃を行った。第39任務部隊は第99任務部隊に再編される。第99任務部隊は1942年(昭和17年)4月28日にソビエト連邦のムルマンスクに向かうPQ15船団 (Convoy PQ 15) の護衛をするため出撃した。 5月1日、ドイツ海軍の駆逐艦3隻と潜水艦1隻は、PQ-11船団と英軽巡エディンバラ (HMS Edinburgh, C16) を襲撃していた。同1日、第99任務部隊ではトライバル級駆逐艦パンジャビ (HMS Punjabi, F21) と戦艦キングジョージ5世 (HMS King George V) が衝突し、パンジャビが沈没した。ワシントンは船体が二つに折れたパンジャビとの衝突を回避すべく転舵したが、沈没艦の爆雷が水中で爆発した。キングジョージ5世は修理のため駆逐艦(マーチン、オリビ)に護衛されてスカパ・フローへ戻り、ワシントンと護衛艦艇は5月5日までその場に留まる。このとき第99任務部隊はアイスランドのクヴァールフィヨルズル (Hvalfjörður) に向かい、同地で補給艦ミザール (USS Mizar, AF-12) から食糧の供給を受けた。また潜水調査が行われたが、艦水線下に損傷なしという結果が得られ、一同を満足させた。クバルフィヨではアメリカ及びデンマークの高官がギフェン提督を表敬訪問し、5月12日に彼の旗艦に乗艦した。 第99任務部隊はその後本国艦隊と合流のため5月15日に編成替えが行われ、6月3日にスカパ・フローに戻る。翌日ヨーロッパ方面艦隊の司令官ハロルド・スターク提督がワシントンに乗艦、その司令官旗を掲揚し、ワシントンには臨時司令部が置かれた。6月7日にはジョージ6世がワシントンを視察した。 詳細は「PQ17船団」を参照 スターク提督が艦を離れた後、ワシントンはソ連の港に通じる北極海の航路を哨戒した。6月27日、PQ17船団 (Convoy PQ-17) はアイスランドを出発し、アルハンゲリスクにむかった。トーヴィ提督直率の警戒部隊(戦艦デューク・オブ・ヨーク、戦艦ワシントン、空母ヴィクトリアス、巡洋艦3、随伴駆逐艦)が間接護衛をおこない、ルイス・ハミルトン(英語版)少将が率いる英米巡洋艦部隊が直接護衛をおこなう(PQ-17船団戦闘序列)。ドイツ軍は輸送船団PQ17を攻撃するためレッセルシュプルング作戦(英語版)を発動した。7月3日には戦艦ティルピッツ(オットー・シュニーヴィント中将旗艦)、ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) 、重巡アドミラル・ヒッパー (Admiral Hipper) 、随伴駆逐艦がアルタフィヨルドやナルヴィクに集結した。PQ17船団の警戒部隊にワシントンを含めた戦艦2隻と空母ヴィクトリアスがいることは、ティルピッツも知っていた。ティルピッツ部隊は7月5日に出撃したが、PQ17船団を襲うまえに反転して帰投した。結局、本作戦でワシントンとティルピッツが交戦することはなかった。だがティルピッツ以下のドイツ艦隊を恐れたイギリス海軍省はPQ17船団を分散させ、各船が自力でソ連にむかうよう命じる。PQ-17船団は33隻のうち23隻が空襲とUボートの攻撃で沈没した。米国はワシントンを有効に活用できないイギリスに失望した。またソ連向け援助船団もしばらく中止された。 7月14日にギフェン少将は旗艦をウィチタへ移し、ワシントンは駆逐艦(ウェインライト、メイラント、リンド)を伴ってアイスランドを離れた。7月21日、ワシントンはニューヨークのグレーヴズエンドに到着し、オーバーホールのため2日後にニューヨーク海軍工廠へ入渠した。
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欧州での活動
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士大夫の家柄に生まれる。父の褚吉田は、名医として評判があった。褚民誼は最初旧学を学んだが、後に英語や理数系の学問に親しんだ。1903年(光緒29年)、日本へ留学し、日本大学で政治経済学を学ぶ。この時、革命思想に傾倒し、1906年(光緒32年)、同郷の張静江とともにフランスへ向かう途中のシンガポールで、中国同盟会に加入した。フランスでは、呉敬恒(呉稚暉)・李石曽・蔡元培らとともに中国印書局を創設している。『新世紀月刊』『世界画報』などの刊行物を発行して、革命思想の宣伝に努めた。 1911年(宣統3年)11月、褚民誼は、辛亥革命により革命派が掌握した上海に戻る。この時、黄興の紹介により、汪兆銘・陳璧君夫婦と知り合った。褚は、陳璧君の義妹である陳舜貞と結婚している。1912年(民国元年)4月、褚は同盟会本部駐上海機関部の総務長に就任した。しかし、まもなく宋教仁が国民党に改組すると、これに失望してベルギーに留学する。ブリュッセル自由大学で学んだ。 その後、1915年(民国4年)に、袁世凱打倒活動のため一時帰国した。まもなく欧州に戻り、フランスで蔡元培・汪兆銘らと「華法教育会」を立ち上げ、中国人留学生の支援組織とした。1920年(民国9年)、呉敬恒・李石曽らとリヨン中法大学を創設した。褚自身は、同年にストラスブール大学で医学を学ぶ。1924年(民国13年)、医学博士号を取得した。
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