京都府立朱雀高等学校
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京都府立朱雀高等学校 | |
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京都府立朱雀高等学校(2013年8月)
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北緯35度0分52.3秒 東経135度44分40.9秒 / 北緯35.014528度 東経135.744694度座標: 北緯35度0分52.3秒 東経135度44分40.9秒 / 北緯35.014528度 東経135.744694度 | |
過去の名称 | 京都府立第二高等女学校 京都府立京都第二高等女学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | ![]() |
学区 | 京都市・乙訓通学圏 |
設立年月日 | 1904年2月2日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程、定時制課程、通信制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D126210000051 |
高校コード | 26104B |
所在地 | 〒604-8384 |
京都府京都市中京区西ノ京式部町1
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外部リンク | 公式サイト |
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京都府立朱雀高等学校(きょうとふりつ すざくこうとうがっこう)は、京都府京都市中京区西ノ京式部町にある府立高等学校。全日制、定時制、通信制をもつ。京都市・乙訓通学圏に属する。長らく私服登校だったが、2019年に制服が導入された。[1]。
沿革
- 1904年(明治37年)2月 - 京都府立第二高等女学校として発足
- 1923年(大正12年)4月 - 京都府立京都第二高等女学校と改称
- 1948年(昭和23年)4月 - 学制改革により京都府立朱雀高等学校設立。高校三原則により普通科・商業科を設置。
- 1948年(昭和23年)9月 - 通信制課程併設
- 1948年(昭和23年)10月 - 旧京都第二中学校跡に鳥羽分校(定時制課程)設置
- 1950年(昭和25年)4月 - 朱雀高校本校に定時制課程併設
- 1984年(昭和59年)4月 - 鳥羽分校(定時制課程)を設立なった京都府立鳥羽高等学校へ移管
- 1985年(昭和60年)4月 - 全日制普通科にI類、II類(人文系・理数系)を設置
- 1997年(平成9年)4月 - 全日制商業科を募集停止、全日制普通科II類の改編により理数系廃止、定時制・通信制に単位制導入
- 2006年(平成18年)4月 - 全日制普通科II類人文系を文理系に再編。
- 2014年(平成26年)4月 - 総合選抜と類型制度を廃止
教育目標
- 平和で民主的な社会の形成者として、 人権を守り、 自由を愛し、 労働を尊重する人間を育てる。
- 科学的に物事を探求する力を備え、 情操豊かで創造性に富んだ心身共に健康な人間を育てる。
- 相互の人格を尊重し、 真理と正義のために勇気ある行動のできる人間を育てる。
- 仲間たちと共同連帯することができ、 自主的・自治的能力を持った人間を育てる。
- 基礎的な学力を身につけ、 広く社会に関心を持って、 自らの進路を自覚的にきりひらくことのできる人間を育てる。
設置学科
- 全日制:普通科
- 定時制:普通科
- 通信制:普通科
部活動
京都第二高等女学校時代の水泳部は、1936年の第一回全国女子中等学校水上競技大会(今日ではインターハイ第10回大会女子部門と位置付けられる大会)で総合優勝を達成している[2]。
著名な出身者
- 清水照子 - 台湾の慈善家
- 中澤節子(在学中に死去[注 1]) - 『花ちりぬ』著者
- 飛鳥井雅道 - 歴史学者、京都大学名誉教授
- 吉田哲郎 - ニチハ社長
- 杉田繁治 - 国立民族学博物館名誉教授、龍谷大学教授
- 石塚広治 - 元ラグビー日本代表選手
- 田岡俊次 - ジャーナリスト、軍事評論家
- 野川由美子 - 女優
- 山本正 - 元宇治市長
- 桶谷大 - 日本プロバスケットボールリーグ琉球ゴールデンキングス ヘッドコーチ
- 白岩玄 - 作家、「野ブタ。をプロデュース」
- 桜井鐘吾 - 元プロサッカー選手
- 森かれん - 京都市会議員、地域政党京都党政務調査会長
脚注
注釈
- ^ 死没地は本校の校庭である。
出典
- ^ “鴨沂高、制服導入へ 来春から”. 京都新聞 (2012年12月7日). 2012年12月8日閲覧。
- ^ 「第一回全国女子中等学校並全国女子水上競技大会」『水泳』42・43号、日本水泳競技連盟、1936年12月、8-13頁、2021年3月27日閲覧。
関連項目
外部リンク
朱雀高等学校
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神奈川県にある中高一貫の進学校で女子バレー部の実力は全国レベル。春高優勝世代の黒曜谷高校とは春高決勝戦で対戦しており、大会史に残る点差で大敗している。槌家監督の方針により、チーム全員の能力を均等化させるバランス重視のチーム作りを行なっており、他校からは「リズムを崩されやすく、やりにくいチーム」と評されている。OB・OGを中心とした父兄の後援が強力で、かつて大敗を喫した黒曜谷高校に対するリベンジ意識が強い。 寺沼 理香(てらぬま りか) 高等部2年生でキャプテン。元全日本ジュニア選手。何事にも真面目でカリスマ性があり、チームの意思統一に貢献している。長崎県の大賀工業高校に通う幼馴染(先坂)と遠距離恋愛中。 中学時に膝を大怪我して挫折を味わい自暴自棄になり、一時ヤンキーと化していたが、不良に絡まれていた厚子と奈緒を助け激励するなどの武勇伝も残している。その後、槌家にスカウトされ朱雀中等部へ転入しバレーを再開。高等部でも膝は完治しておらず、普段は無理せずプレーしている。 雨宮摩耶の謀略により、「中学時代はレディースの総長だった」という過去が各所へ暴露され一時チームが瓦解しかけるが、自らレギュラー辞退およびVリーグ(西レ)内定辞退という落とし前を付け、加えて練がインタビューで敢えて朱雀高校を貶し悪役を一手に引き受けたことで理香への中傷は収まり、事態は収拾する。 有栖川 幾重(ありすがわ いくえ) 高等部2年生。ポジションはセッターで副キャプテン。一人称は「ボク」。 裕福な有栖川家は三國家と縁戚関係があり、智之や広之の婚約者候補としても名が挙がっている。また有栖川家からの寄付金により、理香ら特待生の活動が可能になっている面もある。槌家監督の方針を受け入れず部活動を放棄したが、理香のために退部や転校はせず幽霊部員化していた。摩耶の謀略をいち早く察知・分析し、対応する策士。理香への中傷収拾後、チームに復帰する。 理香とは無二の親友同士で、セッターとして高い実力を持ち、理香から最も信頼されている。「アタッカーに厳しい(打ちやすいトスでなく、打てれば必ず決まるトスを上げる)セッター」をポリシーとし、信頼できるアタッカーを試合で重用する傾向がある。 完蛇田 しえ(かんだた しえ) 高等部1年生。背番号13。試合中に知人の観客に笑顔を振りまいたり、試合開始直前まで携帯電話でメール閲覧をして理香に窘められたり、雨宮摩耶の謀略に嵌って他チーム情報を集めてそれを漏らしたりと、言動は軽挙で幼稚なところがある。これらによって理香の逆鱗に触れ、過去に携帯電話を2度も破壊されている。 プレーでは模倣が得意で、黒曜谷戦では練のサーブを真似てサーブポイントを連取している。 久茂(くも) 高等部1年生。しえと行動をともにすることが多く、同じく軽挙な面がある。 阿部礼子(あべ れいこ) 高等部2年生。幾重が幽霊部員化して以降は正セッターとしてチームを支えていた。2年次の春高では途中まで怪我で離脱していたが、3回戦後に復帰。理香や幾重と比べれば至って常識人で、完蛇田たち後輩からも慕われている。 槌家(つちや) 高等部の女子バレー部監督で、鎌倉沙羅の実父。 過去に実業団や全日本チームも率いた名監督だが、妻(海羅)とは駆け落ちの形で結婚したため、妻の本家(鎌倉財閥)から仕事上の嫌がらせを受け、ストレスでアルコール依存症となり、妻への家庭内暴力に至り、妻と幼少時の沙羅は家を出た。後に三國財閥会長から「妻子は犬神家で保護し、依存症治療や監督業復帰も支援する」代わりに、朱雀での監督就任およびチーム強化を要求される。 三國財閥会長の要望(膝に不安のある理香だけに頼らないチーム作り)と相反するポリシーを貫く幾重を戦力外として放置していたが、レギュラー辞退した理香を翻意させるために折れ、幾重の復帰および試合での起用を公言する。人を食った物言いをするが、相手チームに対する分析や試合での指示は的確。
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