最後の主要作品群
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「エドワード・エルガー」の記事における「最後の主要作品群」の解説
1911年6月、ジョージ5世の戴冠に伴う祝典の一環として、エルガーにメリット勲章が授けられた。これは同時に24人までしか保持できない栄誉ある勲章である。翌年、ロンドンへと戻ってきたエルガー一家はリチャード・ノーマン・ショウのデザインによるハムステッド、ネザーホール・ガーデンズ(Netherhall Gardens)の大きな邸宅に住むようになった。ここで戦前期最後となる2つの主要作品、合唱頌歌『ミュージック・メイカーズ』(1912年のバーミンガム音楽祭のため)、交響的習作『フォルスタッフ』(1913年のリーズ音楽祭のため)が書き上げられた。両曲とも慇懃な評価を受けたが、そこに熱狂を見出すことは出来なかった。『フォルスタッフ』の被献呈者である指揮者のランドン・ロナルドですら、内輪には自らが「曲を理解」できないと告白していた。一方、音楽学者のパーシー・シュールズ(Percy Scholes)は『フォルスタッフ』に関して、「偉大な作品」であるが「大衆の評価による限り、相対的に失敗作である」と記した。 第一次世界大戦が勃発すると、大虐殺の予感に恐れ慄いていたエルガーの心の内には愛国的な感情が湧きあがっていた。彼は『兵士へ寄せる歌 A Song for Soldiers』を作曲したが、これは後になってしまいこんでしまう。彼は地元警察の特別巡査として署名し、その後陸軍のハンプステッド・ボランティア予備隊に加わっている。こうした中で生まれた愛国的作品群の『カリヨン』は語り手による朗読と管弦楽によるベルギーを讃えた作品、『ポローニア』はポーランドを讃える管弦楽曲である。『希望と栄光の国』は既に人気であったが、さらにその勢いは高まりを見せていた。エルガーは愛国的感情を少くした歌詞を曲に合わせて歌えるよう新たに付けたいと考えていたが、この案は日の目を見なかった。 戦時期にエルガーが作曲したその他の作品は児童演劇への付随音楽『スターライト・エクスプレス』(1915年)、バレエ音楽『真紅の扇』(1917年)、そしてローレンス・ビニョンの詩「フォー・ザ・フォーレン」による『イングランドの精神』(1915年-1917年)であり、これは彼のそれまでのロマン的な愛国的性格とは質を異にする3つの合唱音楽である。戦中最後の大規模作品はラドヤード・キップリングの韻文へ作曲した『The Fringes of the Fleet』である。曲は国中で大きな人気を博したが、やがてキップリングは理由を明らかにしないまま劇場での同曲の演奏に異を唱えるようになった。エルガーは自ら指揮棒を執り、グラモフォン社(Gramophone)にこの作品の録音を遺している。 大戦が終結へ向かう頃、エルガーは健康を損ねていた。彼の妻は郊外へ移り住むことが夫にとって最善の策であると考え、画家のレックス・ヴィキャット・コール(英語版)からウェスト・サセックスのフィトルワース(英語版)近くにある屋敷、「ブリンクウェルズ Brinkwells」を借り受けた。ここに1918年から1919年まで滞在して健康を回復させたエルガーは、4つの大規模作品を書き上げる。その最初の3作品は室内楽曲のヴァイオリンソナタ ホ短調、ピアノ五重奏曲 イ短調、弦楽四重奏曲 ホ短調である。作品の制作途上で、アリスは日記にこう書き記している。「E. 素敵な新しい音楽を書いている。」これら3作品の評判は上々であった。タイムズ紙は次のような論評を掲載した。「エルガーのソナタは他の楽曲形式で我々が耳にしたことのあるものを多分に含んでいるが、我々は彼に変わって欲しいとも他の誰かになって欲しいとも全く考えていないのだから、それはあるべき姿なのである。」四重奏曲と五重奏曲は1919年5月21日にウィグモア・ホールで初演を迎えている。マンチェスター・ガーディアン紙は次のように評した。「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である。」 チェロ協奏曲より第4楽章 アレグロ 演奏:Skidmore College Orchestra. Courtesy of Musopen この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 対して、残る1曲であるチェロ協奏曲 ホ短調の初演は1919年10月にロンドン交響楽団の1919年-1920年シーズンの開幕コンサートを飾ったが、惨憺たる結果に終わった。演奏会においてエルガー作品のみ作曲者自身が指揮棒を握り、それ以外の楽曲はアルバート・コーツが指揮を行った。彼はリハーサルの時間を超過してエルガーの持ち時間を使い込んだ。エルガー夫人はこう記している。「あの冷酷で自己中心的なマナーの悪いがさつ者(中略)あの冷酷なコーツがリハーサルをし続けていた。」オブザーバー紙のアーネスト・ニューマンは次のように書いた。「不適切なリハーサルの1週間に関する噂が囁かれている。どう説明をしたとしても、かつてあれほどの立派なオーケストラがこうも嘆かわしい姿を見せることなど十中八九なかっただろう、という哀れな現実が残る。(中略)作品自体は愛らしい素材から成り、非常に簡素であるが - その含蓄に富む簡潔さはこの2年にエルガーの音楽に現れてきたものである - その簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている」エルガーは初演のソリストを務めたフェリックス・サルモンドを責めることはせず、サルモンドは彼のために後日もう一度演奏を行った。約1年余りで100回の演奏に恵まれた第1交響曲とは対照的に、チェロ協奏曲はその後1年以上にわたってロンドンで再演されることはなかった。
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