最後の大規模作品とは? わかりやすく解説

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最後の大規模作品

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:44 UTC 版)

ジャン・シベリウス」の記事における「最後の大規模作品」の解説

1926年にはシベリウス創作活動急激に落ち込み上昇気配見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残り生涯のうちに規模大きな楽曲わずかな数しか生み出さなかったのであるそうした中の2つ最重要作品間違いなく『テンペスト』交響詩タピオラ』である。残り人生30年間の大部分シベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごしたシベリウス交響曲第8番取り組んでいたことを示す数多く証拠残されている。彼は1931年及び1932年セルゲイ・クーセヴィツキーに対してこの交響曲初演約束しており、ベイジル・キャメロン指揮による1933年ロンドンでの演奏一般告知されすらした。この交響曲存在したことを紙の状態で伝え具体的な証拠は、1933年発行され第1楽章浄書かかった費用請求書並びに2011年初め出版演奏され下書き段階の短い断片のみである。シベリウスは常に厳し自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲書くことができなかったら7番最後せねばならない」と述べていた。草稿現存しないことから、各種文献ではシベリウス楽譜痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウス多量書類焼却したことが確実である1945年考えられる。妻のアイノ次のように回想している。 1940年代アイノラ大規模なアウト・デ・フェが行われました。夫は洗濯かごの中に大量原稿集め、それらをダイニング暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日引きちぎられページ破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしましたですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第雰囲気明るくなっていったのです。 1939年1月1日シベリウス国内外向けのラジオ放送出演しその中でアンダンテ・フェスティーヴォ』を自ら指揮した放送音源として残されたこの演奏後年CD化されている(ONDINE: ODE 992-2)。これがおそらく唯一の現存するシベリウス自作自演だろうと思われる

※この「最後の大規模作品」の解説は、「ジャン・シベリウス」の解説の一部です。
「最後の大規模作品」を含む「ジャン・シベリウス」の記事については、「ジャン・シベリウス」の概要を参照ください。

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