最後の安定期とは? わかりやすく解説

最後の安定期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)

第二次ブルガリア帝国」の記事における「最後の安定期」の解説

イヴァン・アレクサンダル伯父ミハイル・シシュマンが戦死した後の混乱収めブルガリア帝国は最後の安定期を迎える。東ローマ占領され都市ブルガリア人蜂起によって、イヴァン・アレクサンダルビザンツ占領された南ブルガリアの都市短期の間に奪還した1332年のルソカストロの戦い英語版)でブルガリア軍アンドロニコス3世率い東ローマ軍破り戦後ブルガリア有利な和約結ばれる東ローマ破った後、イヴァン・アレクサンダル自身即位反対したヴィディンのデスポット・ベラウルを攻撃しヴィディン併合したイヴァン・アレクサンダル即位同時期、セルビアではクーデターによってステファン・ウロシュ3世廃位され、ウロシュ3世の子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン王位に就くアレクサンダル姉妹エレナはステファン・ウロシュ4世元に嫁ぎブルガリアは新王が即位したセルビアとの関係改善した1339年にはアレクサンダル長子アンドロニコス3世の娘マーリアとの婚姻成立しビザンツとの関係も改善される1345年アレクサンダルワラキア人の妃テオドラ英語版)を離縁し1355年から1356年の間にテオドラの子であるイヴァン・スラツィミルヴィディン統治者封じた14世紀ブルガリア統一欠いた状態にあり、各地デスポット封建領主)の中でもヴィディンドブルジャタルノヴォ中欧政府と並ぶ勢力になっていた。イヴァン・アレクサンダル在位中もデスポット独立した状況続きブルガリア分裂解消されなかった。イヴァン・アレクサンダル時代ブルガリアには、以下の封建勢力割拠していた。 ヴィディン - イヴァン・スラツィミル ドブルジャ - テルテル家出身のバリク、テオドル、ドブロティツァの3兄弟 ヴェルブジュド - コンスタンティン・デヤン ストルミツァシュティプ、ストビ(英語版) - フレリョ 14世紀半ばアナトリア半島新興国オスマン帝国バルカン半島進出すると、バルカン半島情勢新たな局面迎える。 1351年東ローマ帝国ブルガリアセルビアオスマン対抗する艦隊建設協力呼びかけるが、同盟実現しなかった。1356年ブルガリア東ローマ共同オスマン軍攻撃する失敗するオスマン帝国のスルターン・ムラト1世は南ブルガリアに軍を進め1364年にボルイ(現在のスタラ・ザゴラ)とプロヴディフオスマン占領下入りアレクサンダルムラト1世講和求めなければならなくなった。同1364年東ローマ軍黒海沿岸部ブルガリア領に侵入してアンヒアロス現在のポモリエ)を奪ったが、これがブルガリア東ローマの間に起きた最後戦争となる。この敗戦は、ブルガリアの軍事力が東ローマよりも衰退したことを示していた。 1365年イヴァン・スラツィミル統治するヴィディンハンガリー攻撃を受け、1369年アレクサンダルワラキア公国ドブルジャ支援受けて奪回するまでヴィディンハンガリー支配下置かれた。1366年から1367年にかけて黒海沿岸部サヴォイア伯国攻撃を受け、またハンガリー西欧攻撃最中に南ブルガリアの都市いくつか東ローマ領土組み込まれた。

※この「最後の安定期」の解説は、「第二次ブルガリア帝国」の解説の一部です。
「最後の安定期」を含む「第二次ブルガリア帝国」の記事については、「第二次ブルガリア帝国」の概要を参照ください。

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