最後の安定期
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「第二次ブルガリア帝国」の記事における「最後の安定期」の解説
イヴァン・アレクサンダルは伯父ミハイル・シシュマンが戦死した後の混乱を収め、ブルガリア帝国は最後の安定期を迎える。東ローマに占領された都市のブルガリア人の蜂起によって、イヴァン・アレクサンダルはビザンツに占領された南ブルガリアの都市を短期の間に奪還した。1332年のルソカストロの戦い(英語版)でブルガリア軍はアンドロニコス3世の率いる東ローマ軍を破り、戦後ブルガリアに有利な和約が結ばれる。東ローマを破った後、イヴァン・アレクサンダルは自身の即位に反対したヴィディンのデスポット・ベラウルを攻撃し、ヴィディンを併合した。 イヴァン・アレクサンダル即位の同時期、セルビアではクーデターによってステファン・ウロシュ3世が廃位され、ウロシュ3世の子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが王位に就く。アレクサンダルの姉妹エレナはステファン・ウロシュ4世の元に嫁ぎ、ブルガリアは新王が即位したセルビアとの関係を改善した。1339年にはアレクサンダルの長子とアンドロニコス3世の娘マーリアとの婚姻が成立し、ビザンツとの関係も改善される。1345年にアレクサンダルはワラキア人の妃テオドラ(英語版)を離縁し、1355年から1356年の間にテオドラとの子であるイヴァン・スラツィミルをヴィディンの統治者に封じた。 14世紀のブルガリアは統一を欠いた状態にあり、各地のデスポット(封建領主)の中でもヴィディンとドブルジャはタルノヴォの中欧政府と並ぶ勢力になっていた。イヴァン・アレクサンダルの在位中もデスポットが独立した状況は続き、ブルガリアの分裂は解消されなかった。イヴァン・アレクサンダル時代のブルガリアには、以下の封建勢力が割拠していた。 ヴィディン - イヴァン・スラツィミル ドブルジャ - テルテル家出身のバリク、テオドル、ドブロティツァの3兄弟 ヴェルブジュド - コンスタンティン・デヤン ストルミツァ、シュティプ、ストビ(英語版) - フレリョ 14世紀の半ばにアナトリア半島の新興国家オスマン帝国がバルカン半島に進出すると、バルカン半島の情勢は新たな局面を迎える。 1351年に東ローマ帝国はブルガリアとセルビアにオスマンに対抗する艦隊建設の協力を呼びかけるが、同盟は実現しなかった。1356年にブルガリアは東ローマと共同でオスマン軍を攻撃するが失敗する。オスマン帝国のスルターン・ムラト1世は南ブルガリアに軍を進め、1364年にボルイ(現在のスタラ・ザゴラ)とプロヴディフがオスマンの占領下に入り、アレクサンダルはムラト1世に講和を求めなければならなくなった。同1364年に東ローマ軍が黒海沿岸部のブルガリア領に侵入してアンヒアロス(現在のポモリエ)を奪ったが、これがブルガリアと東ローマの間に起きた最後の戦争となる。この敗戦は、ブルガリアの軍事力が東ローマよりも衰退したことを示していた。 1365年にイヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンがハンガリーの攻撃を受け、1369年にアレクサンダルがワラキア公国とドブルジャの支援を受けて奪回するまでヴィディンはハンガリーの支配下に置かれた。1366年から1367年にかけて黒海沿岸部はサヴォイア伯国の攻撃を受け、またハンガリーと西欧の攻撃の最中に南ブルガリアの都市のいくつかが東ローマの領土に組み込まれた。
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