最後の宝生大夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:15 UTC 版)
宝生大夫・宝生弥五郎友于(宝生流15世宗家)の次男(兄は夭逝)として江戸の神田に生まれる。幼名は石之助。 江戸時代後期の宝生座は、将軍家斉・家慶の支持を受け、他座を圧倒する勢威を誇っていた。父・友于もやはり将軍の後援の元、第一人者として活躍した名手であった。 1842年(天保13年)5月15日、江戸城本丸の舞台で「関原与一」を務め、6歳で初舞台を踏む。なおこの時ワキを務めたのが、後にワキ方の名手となる宝生新朔であり、やはり7歳の初舞台であった。 1848年(弘化5年)、友于は江戸で勧進能を催行する。江戸での勧進能は当時観世大夫の特権であり、それを覆したこの勧進能は、宝生座の隆盛期を象徴するものとされる。このいわゆる「弘化勧進能」で、九郎は12歳ながら16番の能を演じ、その才能が注目された。 1853年(嘉永6年)12月、父・友于の引退に伴い、17歳で家督を嗣ぐ。この相続は、弟・重次郎を偏愛する友于の妻に反発した門弟たちが、九郎を推して友于を隠居させたものとも言われる。 こうして大夫として座を統率することとなった九郎であったが、32歳の1868年(明治元年)、幕府の崩壊に遭う。明治維新により、九郎を含む能役者たちは、その生活の糧を全く失い、路頭に迷うこととなった。
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