最後の奮闘と満鉄の解体
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「南満洲鉄道」の記事における「最後の奮闘と満鉄の解体」の解説
1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった山崎元幹の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた。この営みは、8月15日の玉音放送後も変わりなくつづけられた。8月17日、関東軍総司令官山田乙三は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている。8月20日、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった。 満鉄は、満洲に侵攻したソ連軍に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。しかし、9月22日の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、9月27日、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した。9月28日、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている。1946年1月15日、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した。1月21日、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は戦利品であると通告したという。 なお、日本国内における拠点等は1945年9月30日、GHQが発出した「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書に基づき、即時閉鎖(閉鎖機関)が行われている。1946年5月 東洋埠頭商事株式会社が設立、日満倉庫(株)の全施設を賃借し全従業員を引き継ぐ。 その後、国共内戦によって1949年に中国共産党率いる中華人民共和国が成立し、1955年には中国共産党政府への路線引き渡しが完了した。南満洲鉄道株式会社は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)よりポツダム宣言にもとづいた閉鎖機関令が公布され、1945年9月30日にさかのぼって閉鎖された。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年までかかった。
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最後の奮闘と満鉄の解体
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1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった山崎元幹の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた。この営みは、8月15日の玉音放送後も変わりなくつづけられた。8月17日、関東軍総司令官山田乙三は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている。8月20日、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった。 満鉄は、満洲に侵攻したソ連軍に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。しかし、9月22日の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、9月27日、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した。9月28日、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている。1946年1月15日、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した。1月21日、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は戦利品であると通告したという。 なお、日本国内における拠点等は1945年9月30日、GHQが発出した「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書に基づき、即時閉鎖(閉鎖機関)が行われている。 その後、国共内戦によって1949年に中華人民共和国が成立し、1955年には中国政府への路線引き渡しが完了した。南満洲鉄道株式会社は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)よりポツダム宣言にもとづいた閉鎖機関令が公布され、1945年9月30日にさかのぼって閉鎖された。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年までかかった。
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