セルビアとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 23:20 UTC 版)
「ミハイル3世シシュマン」の記事における「セルビアとの関係」の解説
14世紀初頭までブルガリアとセルビアは緊密な関係にあったが、1324年のミハイル3世とアンナ・ネダの離婚により、両国の関係は冷え切ったものとなっていた。アンナ・ネダは息子を連れてタルノヴォを離れなければならず、兄であるセルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの元に亡命した。 ウロシュ3世は従兄弟のステファン・ヴラディスラヴ2世(英語版)との抗争に直面しており、ミハイル3世と敵対する立場には無かった。ミハイル3世はウロシュ3世を競争者と見做してはいたものの、ウロシュ3世の当面の敵であるヴラディスラヴ2世に十分な援助を提供しなかった。1324年春、ウロシュ3世は後にセルビア大司教となるダニーロ2世をタルノヴォの宮廷に使節として派遣したが、ダニーロ2世は使命を達成することができなかった。さらに1327年からの東ローマ帝国内の内訌においては、セルビアはアンドロニコス2世を支持し、アンドロニコス3世を支持するブルガリアと敵対する立場をとっていた。。
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