セルビアおよびユーゴスラビア統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:17 UTC 版)
「北マケドニア」の記事における「セルビアおよびユーゴスラビア統治時代」の解説
第二次バルカン戦争ではマケドニア地域の南部5割はギリシャ、西北部4割はセルビア(後にユーゴスラビア王国)が奪取し、ブルガリアは1割を確保するに留まった。この時のセルビア領マケドニアが、のちの北マケドニア共和国の領土となった。ギリシャ領、セルビア領のマケドニアでは、ブルガリアの支援を受けた抵抗運動が活発に起こったが、第一次世界大戦で中央同盟側についたブルガリアが敗北すると、ヌイイ条約によりギリシャ領マケドニアのスラヴ人は住民交換の対象となった。この時、全てのスラヴ人の母国はブルガリアとされ、自身をギリシャ人と宣誓した者以外は全てブルガリアへと追放された。他方、ユーゴスラビアとなったセルビア領マケドニアではその後も内部マケドニア革命組織による抵抗運動が続き、1934年にはユーゴスラビア王アレクサンダル1世を暗殺した。 第二次世界大戦時、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。枢軸側についたブルガリアはユーゴスラビア領マケドニアの大部分を支配下に収め、マケドニア併合の夢を実現する。マケドニアのブルガリアへの統合を歓迎する内部マケドニア革命組織の右派はブルガリアによる占領統治に協力するが、ブルガリアから独立した統一マケドニアの実現を志向した左派の勢力は、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる共産主義者のパルチザンとして枢軸国に抵抗した。1944年には枢軸国に対する抵抗勢力はマケドニア人民解放反ファシスト会議の下に統一された。 第二次世界大戦でブルガリアが敗退し、ユーゴスラビアがマケドニア北西部の支配を回復すると、ユーゴスラビアはティトーの指導の下、共産主義体制をとる連邦国家となった。マケドニア人民解放反ファシスト会議の決定に従って、ユーゴスラビア領マケドニアはマケドニア人民共和国(1963年よりマケドニア社会主義共和国)となった。ユーゴスラビア連邦の下では、ブルガリア人とは異なるマケドニア人意識が涵養され、またスコピエ方言を基礎としたマケドニア語の正書法も確立された。 1963年にはスコピエで大震災(マケドニア語版)が発生し、死者1,100人を出した。
※この「セルビアおよびユーゴスラビア統治時代」の解説は、「北マケドニア」の解説の一部です。
「セルビアおよびユーゴスラビア統治時代」を含む「北マケドニア」の記事については、「北マケドニア」の概要を参照ください。
- セルビアおよびユーゴスラビア統治時代のページへのリンク