セルビアにおける伝承
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「ミロシュ・オビリッチ」の記事における「セルビアにおける伝承」の解説
セルビアにおけるコソヴォ伝説の中で、ミロシュ・オビリッチは主要な英雄の一人として知られている。この伝承によれば、ミロシュはセルビアの君主ラザル・フレベリャノヴィチの義理の息子(婿)だったのだとされている。大まかな筋は、次のとおりである。ミロシュの妻、すなわちラザルの娘と、その姉妹でヴク・ブランコヴィチ(英語版)の妻との間に、どちらの夫が勇敢かをめぐって喧嘩が起きた。その結果、ブランコヴィチはミロシュと敵対し戦う道を選んだ。憎悪に駆られたブランコヴィチはラザルに告げ口し、ミロシュがラザルを裏切ってトルコ人と組もうとしていると讒言した。コソヴォの戦い前夜、ラザルは夕食の席で、ミロシュが不忠者であると咎めた。そこでミロシュは自身の忠誠心を証明するべく、脱走を装ってオスマン帝国の陣営へ向かった。機を見計らって、ミロシュはオスマン帝国のスルタンであるムラト1世を刺殺し、自身もスルタンの近侍の者たちにより処刑された。伝説の語りは、ここからコソヴォの戦いの戦闘描写へと移っていく。 コソヴォ伝説を生みだした源流については、コソヴォの戦いが実際に起きた現地にあるという説と、バルカン半島内のより西方でフランス武勲詩の影響を受けて生まれたものであるとする説がある。セルビアの文献学者ドラグティン・コスティッチは、フランスの騎士道叙事詩はコソヴォ伝説の成立には一切かかわっておらず、「単に、すでに生み出されていた伝説とその初期の詩的表現を『補正』しただけ」なのだと主張している。コソヴォ伝説の中核をなしているのは、1389年から1420年にかけてモラヴァ・セルビアで書かれた、ラザルを殉教者・聖人として称賛する聖人崇敬文学群である。中でも特に重要なのが、セルビア総主教ダニーロ3世が著した『ラザル侯賛歌』である。15世紀になると、徐々に伝説が形作られていった。 1430年代にコンスタンティン・コステネツキ(英語版)が著した『専制公ステファン・ラザレヴィチの生涯』には、すでにコソヴォの戦いでオスマン軍の陣営に侵入しムラト1世を殺害した英雄の姿がある。ただしここでは、その英雄の名は明らかにされていない。「ラザルの婿同士の確執」というテーマは、15世紀半ばのヘルツェゴヴィナで初めて現れた。16世紀の文献では、ラザルが戦闘前夜の晩餐でミロシュを咎めた話が現れてくる。マヴロ・オルビーニ(英語版)の1601年の著作では、ラザルの娘たちが自身の夫の勇敢ぶりを張り合う物語が初めて登場する。これらの要素すべてを包含してコソヴォ伝説の完成を見たのが、18世紀初頭にコトル湾もしくはスタラ・ツルナ・ゴラ(英語版)近辺で編まれた『コソヴォの戦いの物語』である。この文献は非常に広く人気を博し、コピーが以後約150年にわたって繰り返し発行され、旧ユーゴスラヴィアの南辺からブダペストやソフィアにいたるまで伝わっていった。また『物語』は、18世紀初頭以降にハプスブルク帝国内のセルビア人の間に民族意識を呼び起こすのにも重要な役割を担った。 ムラト1世の暗殺犯の全名を始めて記したのが、1497年ごろに成立した『イェニチェリの回顧録』(『トルコの歴史あるいは年代記』とも)である。著者のコンスタンティン・ミハイロヴィチ(英語版)は、ルドニク山(英語版)に近いオストロヴィツァ村出身の、セルビア人イェニチェリだった。彼はコソヴォにおけるセルビアの敗北から「背信」にまつわる教訓を引き出す文脈の中で、「ミロシュ・コビツァ」という騎士が、戦闘の中でムラト1世を殺した、と述べている。次にムラト1世殺害者の名に言及しているのが、スロヴェニア人修道僧ベネディクト・クリペチッチ(英語版)が1530年に記したバルカン半島旅行回顧録である。クリペチッチはコソヴォ・ポリェにあったムラト1世の墓を訪ねた時について語る際、「ミロシュ・コビロヴィチ」という騎士の物語を紹介している。クリペチッチは、ミロシュが戦前に侮辱を受けラザルの寵を失っても耐え忍んだこと、ラザルや他の貴族たちとの最後の晩餐、ムラト1世の天幕への進入、残忍な殺人、そして馬に乗って逃げようとしたものの避けられなかった己の死、というミロシュの物語を念入りに練り上げている。ただクリペチッチは自身の物語の出典を明らかにせず、ただセルビア人がミロシュを伝統的に称え、その英雄的な策略を歌に歌っているとだけ記してる。またクリペチッチは他にもコソヴォの戦いの伝説を記録し、ボスニアやクロアチアなどコソヴォから遠く離れた地で伝わるミロシュの歌についても言及している。イングランドの歴史家リチャード・ノールズ(英語版)は1603年の著作でセルビア人の間で伝わる「郷土歌」(英語版)を紹介しており、その中でミロシュを「コベリッツ」(Cobelitz)と呼んでいる。 セルビア叙事詩や歌(『ラドゥル・ベイとブルガリアの王シシュマン』『ドゥシャンの婚礼』など)では、ミロシュ・オビリッチはカラジョルジェやヴク・カラジッチ、ペータル2世ペトロヴィチ=ニェゴシュ(英語版)らの文学作品と同様に、素晴らしい道徳と知性を持ったかつてのディナルに起源を持つセルビア人の一人と見なされており、同時代のそのような評価を持ちえないブルガリア人と対照的な存在とされている。『オビリッチ、ドラゴンの子』という詩では、彼はドラゴンの息子とされ、身体的にも精神的にも超人的な力を有していたと強調されている。この詩の中でミロシュは、他のセルビア叙事詩に登場する様々なセルビアの英雄たちの戦列に加わる。彼らも同じくドラゴンの子孫であり、トルコ人と戦った者たちであるとされている。 セルビア叙事詩の中には、ミロシュ・オビリッチと義兄弟の契りを結んだ者が登場することがある。相手は話によってさまざまで、ミラン・トプリツァ(英語版)とイヴァン・コサンチッチ、またはマルコ・ムルニャヴツェヴィチ(英語版)、またはユゴヴィチ兄弟(英語版)といった名が挙げられている。
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