セルビアの台頭とオスマン帝国の脅威
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「イヴァン・アレクサンダル」の記事における「セルビアの台頭とオスマン帝国の脅威」の解説
セルビアはビザンツの内乱に乗じてマケドニア、アルバニアの大部分、ギリシャ北部を獲得する。1345年にウロシュ4世は「セルビア人とギリシャ人の皇帝」を称し、翌1346年に新たに就任したセルビア総主教から皇帝として戴冠を受けた。ウロシュ4世が皇帝を称したことはビザンツを憤慨させたが、セルビア総主教の叙任式とウロシュ4世の戴冠式にはブルガリア総主教シメオンが出席していたため、ブルガリアはセルビアに協力的な立場をとっていたと考えられている。 イヴァン・アレクサンダルの初期の成功は1340年代後半まで続いた。ヨハネス・カンタクゼノスと同盟を結んだベイリク国家は1346年から1354年まで5回にわたってトラキア地方のブルガリア領に侵入し、加えてペストがブルガリアで流行する。侵入者を撃退しようとするブルガリアの試みは幾度も失敗し、1349年にイヴァン・アレクサンダルの三男イヴァンがトルコ軍に敗れ戦死し、1355年頃に長男のミハイルもトルコ軍との戦闘で落命する。 1351年にビザンツの内訌は終息するが、ヨハネス6世はバルカン半島にオスマン帝国の脅威が迫っていることを感じていた。ヨハネス6世はブルガリアとセルビアに反オスマンの同盟を呼びかけてイヴァン・アレクサンダルに軍艦の建造に必要な資金の援助を求めたが、ヨハネス6世に不信感を抱くイヴァン・アレクサンダルらは彼の要請を聞き入れなかった。ヨハネス6世が退位し、ヨハネス5世が単独の皇帝となった後、1355年にブルガリアとビザンツの間に新たに協力関係を築く試みがなされた。条約の締結にあたってイヴァン・アレクサンダルの娘マリアと将来のビザンツ皇帝である皇子アンドロニコスの婚約が取り決められたが、同盟の締結は具体的な成果を生み出さなかった。
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