セルビアの大領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:19 UTC 版)
「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事における「セルビアの大領主」の解説
ニコラ・アルトマノヴィチが失脚したことで、ラザルはかつてのセルビア帝国領内で最も強力な領主となった。ルドニク山(英語版)のニコラ・ゾイッチやトプリカ川(英語版)峡谷のノヴァク・ベロツルクヴィチら一部の貴族はラザルの権威を受け入れるのに抵抗したが、最終的には屈した。ラザルの大きく豊かな領土は、イスラームを奉ずるオスマン帝国の脅威から逃れてきた東方正教会の僧たちの亡命先となった。これにより、ラザルの名は正教会修道院文化の中心地であるアトス山でも高く知られるようになった。1350年以来、セルビア正教会はペチに総主教庁(英語版)を置いてコンスタンティノープル総主教庁と対立する教会分裂状態にあった。そのような状況で、セルビア人のアトス山修道士で、その著述や翻訳で知られるイサイヤという者が、ラザルに両教会の和解を働きかけるよう説いた。ラザルとイサイヤの尽力により、セルビアからコンスタンティノープルへ和解交渉使節が派遣された。この交渉は成功し、セルビア正教会は1375年にコンスタンティノープル総主教庁とのコミュニオンを再び受け入れた。 この教会分裂期で最後にセルビア正教会の総主教を務めたサヴァ4世は、1375年4月に死去した。同年10月、ラザルとジュラジ・バルシッチはペチでセルビア正教会の教会会議を招集した。ここでイェフレムが新たなセルビア正教会の長に選ばれた。彼はコンスタンティノープルが支援していた候補、あるいは強力な貴族たちが推す候補たちのなかで妥協案として選ばれた人物だった。しかし総主教イェフレムは1379年に退位し、スピリドン(英語版)が総主教位を継いだ。一部の歴史家は、教会内でラザルと手を組む勢力の影響でこの事件が起きたと考えている。ラザルと総主教スピリドンは、非常に良好な協力関係を築いた。教会は教会分裂を終わらせる役割をラザルに与え、対するラザルは修道院に土地を与えたり教会を建てたりした。彼が建てた教会の中でも最高の業績に上げられるのが、1381年に完成したラヴァニツァ修道院(英語版)である。またそれより少し前にも、ラザルは自領の首都クルシェヴァツに、後にラザリツァ教会(英語版)の名で知られるようになる教会を建てている。1379年以降には、ブラニチェヴォにゴルニャク修道院(英語版)を建設している。またラザルは、現在のルーマニア領であるティスマナ(英語版)やヴォディチャの修道院の創建者の一人でもある。さらにはアトス山にあるセルビア人のヒランダル修道院、ロシア人の聖パンテレイモン修道院にも建設費を寄進している。 ラザルは1379年にクチェヴォとブラニチェヴォを征服し、この地域からハンガリーに従うラディチ家、ブランコヴィチ家、ラスティスラリッチ家の勢力を排除し、その勢力をドナウ川まで伸ばした。もともとラヨシュ1世は、おそらくラザルが宗主権を認めた時に、彼にマチヴァ(英語版)地方もしくは少なくともその一部を領有することを認めていた。それ以降ラヨシュ1世に従っていたはずのラザルが同じラヨシュの封臣たちを攻撃したこの行動は、ラザルがラヨシュ1世に反旗を翻した証であると考えることも可能である。実際にラヨシュ1世は1378年にセルビア侵攻の準備をしていたことが知られている。ただ、ラヨシュ1世が誰を標的としていたのかは定かではない。実際にはラディチ家、ブランコヴィチ家、ラスティスラリッチ家の方がラヨシュ1世から離反し、ラザルがラヨシュ1世の承認のもと彼らを討伐したと考えることもできる。 ラザルの国家は、かつてのセルビア帝国の領域に割拠する領主群の中で最大であった。また政府や軍もよく組織されていた。その領土は大モラヴァ川(英語版)、西モラヴァ川(英語版)、南モラヴァ川(英語版)の流域を中心としており、南モラヴァ川の源流域から北はドナウ川やサヴァ川にまで広がっていた。北西ではドリナ川が国境となっていた。重要都市は首都クルシェヴァツの他、ニシュやウジツェ、また中世セルビアの二大鉱業中心地であったノヴォ・ブルドとルドニクが含まれていた。またセルビアの中でも、ラザルの支配領域はオスマン帝国の中心部から最も離れており、その略奪部隊の被害を受けにくい地域だった。そのため、ラザルの支配地域にはオスマン帝国に脅かされた地域からの難民が押し寄せ、過疎地域や未耕作地域を開拓して村を作っていった。難民の中には神秘思想的な考えを持つ者もおり、古き教会の復活を目指し、その新たな基礎をラザルの国家に築こうとした。モラヴァ川流域の戦略的な重要性や、予期されるオスマン帝国侵攻の脅威も相まって、バルカン半島ではラザルの威信や政治的影響力が高まっていった。 1379年から1388年の間に出した特許状の中で、ラザルは自らを「ステファン・ラザル」と呼んでいる。「ステファン」という名はすべてのネマニッチ朝の君主に共通しており、一種のセルビア君主称号の一つのようになっていた。トヴルトコも「セルビア人とボスニアの王」として戴冠した際にスティエパン(ステファン)と名乗っている。言語学的な観点からラザルの特許状を見ると、セルビア語のコソヴォ=レサヴァ方言が用いられている。この特許状で、ラザルは自らセルビア全土のアウトクラトール (セルビア語ではサモドルジャツ samodržac)、あるいは全セルビア人のアウトクラトールを称している。直訳すると「独立した支配者」を意味するアウトクラトールは、もともとビザンツ皇帝の別称だった。ビザンツ帝国の宗主権を名目上認めていたネマニッチ朝のセルビア王たちもこの称号を自称し、字義通りに自身がビザンティウムから自立した存在であることを強調しようとした。ラザルの時代、セルビア国家は領土を失い、地域領主たちごとに分裂し、ネマニッチ朝も絶え、オスマン帝国の脅威にさらされていた。こうした状況は、セルビア国家の継続性に疑問を投げかけるものだった。それに対する答えとして、ラザルは特許状の中で己にこのアウトクラトールという称号を適用したのである。ラザルの理想は、ネマニッチ朝の直接の後継者たる自分のもとでセルビア国家を再統一することであった。セルビア正教会は、このラザルの計画を全面的に後押しした。しかしゼタのバルシッチ家、コソヴォのヴク・ブランコヴィチ、セルビア王マルコ・ムルニャヴチェヴィチ、コンスタンティン・ドラガシュ、マケドニアのラドスラヴ・フラペン(英語版)といった有力な大領主たちは、ラザルから独立したまま領地を経営していた。また彼らとは別に、マリツァの戦い後、マケドニアの三領主がオスマン帝国に帰順していた。ビザンツ帝国や第二次ブルガリア帝国のもとに走った者たちもいた。1388年までに、ゼタの支配者ジュラジ・ストラツィミロヴィチ・バルシッチ(英語版)もオスマン帝国の宗主権を認めた。 1381年、オスマン帝国の略奪部隊がオスマン帝国の属国を通り抜けてラザルの国家に侵入した。しかしパラチン近くで起きたドゥブラヴニツァの戦い(英語版)で、ラザル配下のツレプ・ヴコスラヴィチとヴィトミルがこれを破った。1386年、オスマン帝国のスルタンであるムラト1世がさらに大規模な軍勢を率いて親征し、ラザルが支配していたニシュを奪取した。その直前か直後、ニシュの南西に位置するプロチニク(英語版)で、ラザルの軍がムラト1世の軍を破っている。ハンガリーでは、1382年にラヨシュ1世が没したことで内戦が勃発した。ラザルもこの内戦に介入し、ルクセンブルク家の候補ジグモンド(後の神聖ローマ皇帝ジギスムント)に反対する陣営に参加していたようである。彼はベオグラードやスレムで起きた戦闘に自軍を投じた可能性がある。しかしオスマン帝国の脅威が高まり、ハンガリー国内でジグモンドが支持を集めるようになると、ラザルはジグモンドと和平を結んだ。ジグモンドは1387年3月にハンガリー王に即位した。おそらく和平が成立したのもこの年で、ラザルの娘テオドラがジグモンド派の有力なハンガリー大貴族ガライ2世ミクローシュ(英語版)に嫁いだ。またこの頃、ラザルの娘イェレナがジュラジ・ストラツィミロヴィチ・バルシッチに嫁いだ。またその約1年前には、同じくラザルの娘ドラガナがブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(英語版)の息子アレクサンダル(英語版)に嫁いでいる。
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