セルビアの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 05:12 UTC 版)
「コソボ暴動 (2004年)」の記事における「セルビアの反応」の解説
コソボでの暴動は、セルビアの街角では即座に強い怒りをもたらした。3月17日、ベオグラードやノヴィ・サド、ニシュなどで群集が集まり、コソボのセルビア人に対する仕打ちに抗議するデモが行われた。セルビア正教会のアムフィロヒイェ・ラドヴィッチ府主教(en:Amfilohije Radović)は冷静な対応を呼びかけたものの、17世紀に建造された歴史的なモスクであるバイラクリ・モスク(Bajrakli)が攻撃を受け、放火された。ニシュのイスラム・アガ・モスクも攻撃を受けて放火され、デモ参加者らは「アルバニア人を殺せ!」と叫んでいた。警察がモスクに到着した頃には既にモスクは燃えていたが、複数のメディアが警官は群集を排除しなかったために消火が妨げられたと報じた。両モスクは共に激しく損傷を受けたが、警察と消防の努力によって全壊は免れた。セルビア全土でゴーラ人、トルコ人やアルバニア人などのイスラム教徒住民の資産が攻撃を受けた。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、セルビア政府はノヴィ・サドで行われた暴力への対処に失敗したとした。 セルビア政府は公式にコソボでの暴力を非難した。首相のヴォイスラヴ・コシュトニツァはアルバニア人の分離主義者を非難する談話を発表し、「コソボ及びメトヒヤでの出来事は、アルバニア人分離主義の本当の姿を示した。その暴力的、テロリスト的な本性を…。政府はコソボでのテロを食い止めるためにあらゆる可能な手段を尽くす」と述べた。コシュトニツァはNATOと国際連合が暴力を食い止めるのに失敗したことを強く非難し、コソボに非常事態を宣言した。 セルビア・モンテネグロの少数者権利大臣でムスリムのラシム・リャイッチ(Rasim Ljajić)は、「コソボで起こっている出来事は2つのことを証明した。それは国際ミッションの失敗と、国際社会の完全な敗北だ。」と述べた。 セルビア政府のコソボに関する交渉の最高責任者であるネボイシャ・チョヴィッチ(Nebojsa Čović)は、沈静化のために3月18日にミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァに入った。セルビア治安部隊はセルビア本土とコソボとの州境の警備に当たり、群集や民兵の越境による更なる混乱の拡大の阻止に努めた。 「コソボ・メトヒヤ・セルビア人連合」を代表とするコソボのセルビア人たちは、彼らの身に降りかかった災難について、セルビアとロシアの総主教、およびセルビア政府とロシア大統領ウラジーミル・プーチンに宛てた手紙の中で「ジェノサイド」と表現した。またこの中で、「第二次世界大戦におけるナチス・ドイツ占領下で7つの村が焼き払われたのに比し、今日はキリスト教徒のヨーロッパとアメリカの占領下で数百の村々が焼かれている」とし、よって「今日のコソボ占領は、ファシズムの時代に我々が被った全てを上回っている。」と表現した。孤立したセルビア人集落は移動の自由もなく、電気も暖房もないとして、「強制収容所」にたとえられた。手紙によると、1999年以降に8500件の非セルビア人の殺害や失踪があるが、たった一人の加担者も裁判を受けていない、としている。手紙の中で、セルビア政府によるコソボ分離の是認は「神によっても、人民によっても許されざる、国家による裏切り」であるとした。
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