晩年と私生活とは? わかりやすく解説

晩年と私生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:29 UTC 版)

ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の記事における「晩年と私生活」の解説

1955年革命の成功によりペロン失脚しボルヘス周囲推薦によって新政権からアルゼンチン国図書館館長任命された。翌年にはブエノスアイレス大学英米文学教授にも就任する教授職1964年辞したものの、その後無給講義行っていた。また1955年以降国内外から各種栄誉や賞を贈られるようになり、国内での読者数大幅に増加して名声高まっていった。 しかしこの頃にはボルヘス視力はかなり衰えており、20代からの度重なる手術甲斐なく50年代末には盲目同然となっていた。ボルヘス失明遺伝性のもので、父もまた手術重ねた晩年視力失っている。盲目となって以降作品口述筆記によって作成し、また記憶だけを頼りにして作ることができる定型詩好んで作るようになった晩年には古代英語古代アイスランド文学研究没頭したボルヘス作品1950年代以降ロジェ・カイヨワ中心となってフランス翻訳紹介され次第にその名が知られるようになった1961年にはサミュエル・ベケットとともに第一回国際出版賞(フォルメントール賞)を受賞し国際的名声を得る。その後マドニーナ賞(1966年)、エルサレム賞1972年)、セルバンテス賞チーノ・デル・ドゥーカ世界賞1980年)、レジオン・ド・ヌール勲章1983年)などを受賞している他、オクラホマ大学コロンビア大学オックスフォード大学等から名誉博士号受けている。ただし、生前から非常に評価高かったにもかかわらずノーベル文学賞受賞することはついになかった。ボルヘスノーベル賞受賞できなかった代表的な文豪一人とされ、同賞の選考批判的な立場からしばしばこの例が引用されることがある政治的に保守的な傾向公にし、フアン・ドミンゴ・ペロン彼に代表されるペロン主義には一貫して激し嫌悪感示していた。一方で1955年1976年ペロニスタ政権打倒し軍事政権については、反ペロン主義立場からこれ歓迎しこのため左派国外からは激しく非難されることがあった。なかでも1976年隣国チリ独裁者アウグスト・ピノチェトから勲章受け取ったことはとりわけ強い非難対象となり、これが右翼的と見なされ、ノーベル文学賞受賞逃す原因となったとの見解存在する1924年以降フォルメントール賞の受賞までボルヘス国内移動隣国ウルグアイ旅行除きほとんどブエノスアイレスから出なかったが、フォルメントール賞受賞後アメリカテキサス大学オースティン校1961年ボルヘス半年間の講師の職を提供したのを皮切りにその後毎年のようにアメリカヨーロッパ諸国などに招かれるようになったボルヘス1967年旧友エルサ・アステテ・ミジャンと結婚したが、しかし教養のない彼女との共同生活うまくいかず、1970年離婚1973年ペロン帰国し大統領選挙当選する即座に国立図書館長を辞任した1972年以降ボルヘスはさらに外国訪問頻度増やしていき、ブエノスアイレスよりもむしろ国外で滞在重点を置くようになっていった。日本にも1979年1984年2度来訪し1979年滞在記録は『旅人への贈り物 ボルヘス日本滞在誌』として1982年法政大学出版局より発行されている。1975年には母レオノール死去した1985年死期悟ったボルヘスジュネーブ向かい、その地で教え子でありボルヘス個人的な助手務めていた日系人マリア・コダマ1986年4月再婚した同年6月肝臓癌により死去遺体ジュネーブのプランパレ墓地葬られている。 ボルヘス死後彼の作品権利未亡人であるマリア・コダマ所有することとなったコダマボルヘスの死から3年後1989年ホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団設立し以後コダマ財団理事長つとめている。

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晩年と私生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 03:14 UTC 版)

ハラルド・クラメール」の記事における「晩年と私生活」の解説

クラメールその後も約20年間にわたって自身専門分野活発に貢献し続けた1961年引退した後、それまで役職に伴う雑事で満足にできなかった研究専念し始めた1961年から1983年まで、アメリカヨーロッパ中を飛び回って研究行い、特にバークレープリンストンなどに大きな足跡残している。その研究者としての活動期間は実に70年1913年から1982年)にわたる。 1918年Marta Hanssow と結婚し、妻が1973年亡くなるまで添い遂げた。彼は妻をよく "Beloved Marta" と称した。娘を1人息子2人もうけた

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晩年と私生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 15:45 UTC 版)

アンナ・モッフォ」の記事における「晩年と私生活」の解説

1957年12月8日映画監督のマリオ・ランフランキと結婚したが、1972年離婚2番目の結婚は、1974年11月14日RCA社の会長であるロバート・サーノフとの結婚であった1997年2月22日に夫サーノフと死別アンナ・モッフォは彼女の人生の最後数年ニューヨーク市過ごしたその後乳癌患う乳癌との10年にわたる戦いの後悪化にともない2006年73歳脳卒中起こしニューヨークにて逝去した。実子はいないため、実弟と、夫の連れ子義理の娘3人)が遺族となった。 彼女はニューヨーク州ヴァルハラケンシコ墓地でサーノフと共に埋葬されている。

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