晩年と私生活
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「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の記事における「晩年と私生活」の解説
1955年、革命の成功によりペロンが失脚し、ボルヘスは周囲の推薦によって新政権からアルゼンチン国立図書館の館長に任命された。翌年にはブエノスアイレス大学の英米文学教授にも就任する。教授職は1964年に辞したものの、その後も無給で講義は行っていた。また1955年以降、国内外から各種の栄誉や賞を贈られるようになり、国内での読者数も大幅に増加して、名声は高まっていった。 しかしこの頃にはボルヘスの視力はかなり衰えており、20代からの度重なる手術の甲斐なく50年代末には盲目同然となっていた。ボルヘスの失明は遺伝性のもので、父もまた手術を重ねた末晩年に視力を失っている。盲目となって以降作品は口述筆記によって作成し、また記憶だけを頼りにして作ることができる定型詩を好んで作るようになった。晩年には古代英語と古代アイスランド文学の研究に没頭した。 ボルヘスの作品は1950年代以降、ロジェ・カイヨワが中心となってフランスに翻訳紹介され次第にその名が知られるようになった。1961年にはサミュエル・ベケットとともに第一回国際出版賞(フォルメントール賞)を受賞し国際的名声を得る。その後マドニーナ賞(1966年)、エルサレム賞(1972年)、セルバンテス賞、チーノ・デル・ドゥーカ世界賞(1980年)、レジオン・ド・ヌール勲章(1983年)などを受賞している他、オクラホマ大学、コロンビア大学、オックスフォード大学等から名誉博士号を受けている。ただし、生前から非常に評価が高かったにもかかわらず、ノーベル文学賞を受賞することはついになかった。ボルヘスはノーベル賞を受賞できなかった代表的な文豪の一人とされ、同賞の選考に批判的な立場からしばしばこの例が引用されることがある。 政治的には保守的な傾向を公にし、フアン・ドミンゴ・ペロンと彼に代表されるペロン主義には一貫して激しい嫌悪感を示していた。一方で、1955年と1976年にペロニスタの政権を打倒した軍事政権については、反ペロン主義の立場からこれを歓迎し、このため左派や国外からは激しく非難されることがあった。なかでも1976年に隣国チリで独裁者のアウグスト・ピノチェトから勲章を受け取ったことはとりわけ強い非難の対象となり、これが右翼的と見なされ、ノーベル文学賞の受賞を逃す原因となったとの見解も存在する。 1924年以降フォルメントール賞の受賞まで、ボルヘスは国内移動や隣国ウルグアイ旅行を除きほとんどブエノスアイレスから出なかったが、フォルメントール賞受賞後、アメリカのテキサス大学オースティン校が1961年にボルヘスに半年間の講師の職を提供したのを皮切りに、その後毎年のようにアメリカやヨーロッパ諸国などに招かれるようになった。ボルヘスは1967年に旧友エルサ・アステテ・ミジャンと結婚したが、しかし教養のない彼女との共同生活はうまくいかず、1970年に離婚。1973年にペロンが帰国し大統領選挙に当選すると即座に国立図書館長を辞任した。1972年以降、ボルヘスはさらに外国訪問の頻度を増やしていき、ブエノスアイレスよりもむしろ国外での滞在に重点を置くようになっていった。日本にも1979年と1984年の2度来訪し、1979年の滞在記録は『旅人への贈り物 ボルヘス日本滞在誌』として1982年に法政大学出版局より発行されている。1975年には母レオノールが死去した。 1985年、死期を悟ったボルヘスはジュネーブに向かい、その地で教え子でありボルヘスの個人的な助手を務めていた日系人マリア・コダマと1986年4月に再婚した。同年6月、肝臓癌により死去。遺体はジュネーブのプランパレ墓地に葬られている。 ボルヘスの死後、彼の作品の権利は未亡人であるマリア・コダマが所有することとなった。コダマはボルヘスの死から3年後の1989年にホルヘ・ルイス・ボルヘス国際財団を設立し、以後コダマが財団理事長をつとめている。
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晩年と私生活
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「ハラルド・クラメール」の記事における「晩年と私生活」の解説
クラメールはその後も約20年間にわたって、自身の専門分野に活発に貢献し続けた。1961年に引退した後、それまで役職に伴う雑事で満足にできなかった研究に専念し始めた。1961年から1983年まで、アメリカやヨーロッパ中を飛び回って研究を行い、特にバークレー、プリンストンなどに大きな足跡を残している。その研究者としての活動期間は実に70年(1913年から1982年)にわたる。 1918年、Marta Hanssow と結婚し、妻が1973年に亡くなるまで添い遂げた。彼は妻をよく "Beloved Marta" と称した。娘を1人、息子を2人もうけた。
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晩年と私生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 15:45 UTC 版)
1957年12月8日、映画監督のマリオ・ランフランキと結婚したが、1972年に離婚。2番目の結婚は、1974年11月14日、RCA社の会長であるロバート・サーノフとの結婚であった。1997年2月22日に夫サーノフと死別。 アンナ・モッフォは彼女の人生の最後の数年をニューヨーク市で過ごした。その後に乳癌を患う。乳癌との10年にわたる戦いの後と悪化にともない、2006年に73歳で脳卒中を起こし、ニューヨークにて逝去した。実子はいないため、実弟と、夫の連れ子(義理の娘3人)が遺族となった。 彼女はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地でサーノフと共に埋葬されている。
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