晩年と無惨な最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:32 UTC 版)
『集史』などによれば、晩年、酒宴の席で酔いに任せて旗下の将軍にバイドゥを殴打させたため、両者の仲は急激に悪化したという。ゲイハトゥは後悔して謝罪したが、バイドゥはその宴席から退出した後、モースル駐在の司令官を殺害してバグダードなどのイラク南部の諸都市の支配権を奪取し、両者の対立は本格的な紛争にまで発展した。ゲイハトゥの筆頭部将アク・ブカらはバイドゥに対抗するためイラン北西部一帯の諸将の抱き込みを計ったが、アルグンの筆頭部将であったタガチャルはバグダードなどの権益を守るためバイドゥ側を支持する動きを見せ、アク・ブカ旗下の諸軍さえタガチャル支持に回り離反する状況にまで陥った。ゲイハトゥはアク・ブカの勧めに従いオルドがあったアッラーン地方で再起を計ろうとしたが、オルドに到着した間も無くクンチャクバル、ドラダイらバイドゥ派の将軍たちにオルドを襲撃され、ゲイハトゥはついに拘禁された。バイドゥ派の将軍たちは命乞いをするゲイハトゥを罵倒した上、弓の弦で従者3人ごとゲイハトゥを絞殺したと言う。1295年3月24日であった。 イラン北西部のモンゴル諸将はバイドゥをクガラ川とチャガトゥ川の合流地点に集結し、バイドゥ推戴のための使者を送り、4月にはハマダーンでバイドゥが即位することとなった。
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