晩年と皇位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:00 UTC 版)
光厳や広義門院は異例の形で即位した後光厳天皇を花園や光明と同様庶流の天皇として、直仁の出家により改めて崇光を正嫡とし持明院統の経済的中核であった長講堂領を崇光上皇に譲る。しかし、後光厳天皇と光厳法皇の仲は頗る悪化してしまった。かえって正統を装う必要のある後光厳が周囲の強い勧めでしぶしぶ琵琶の習得始めたのにもかかわらず早々に笙に切り替えたこと、二条良基の勧めで京極派を捨てて二条派歌風に切り替えたことが要因となったと見られる。勧修寺経顕の諫言によって和解するも、後光厳天皇の勅撰で二条派歌風をとる『新千載和歌集』への入集を拒否した。ただし、最晩年の貞治2年に長講堂領や法金剛院領の伝領について、崇光の栄仁親王が皇位継承する若しくは後光厳との両統迭立の場合は崇光の子孫が相続し、後光厳の子孫が皇位継承する場合は後光厳の子孫が相続するように定めている。同年4月8日、伏見御領を大光明寺塔頭に付して長講堂領と分けて崇光上皇の子孫が管領するよう定め、後に前者の置文を根拠に後小松天皇は長講堂領などの所領を栄仁親王から没収したが、後者の置文によって崇光の子孫(伏見宮家)の手元に伏見御領が残ることとなった。崇光は栄仁親王の即位を希望するも後光厳は後円融天皇に譲位し、北朝は後光厳流と崇光流に分裂し対立することとなる。 貞治2年頃、丹波国常照皇寺(京都市右京区京北井戸町)に移り禅僧としての勤めに精進し、『碧巌録』を研究しその禅語によって悟りに至った。貞治3年/正平19年7月7日(グレゴリオ暦1364年8月13日・ユリウス暦8月5日)、遺偈と遺誡を遺しこの地で崩御した。宝算52(満51)。遺誡に従って常照寺裏山にて荼毘に付され埋葬された。 光厳院崩御より100余年後の文明3年2月5日(1471年)、自身の玄孫に当たり、崇光皇統と後光厳皇統を統一し、南朝を滅亡の淵へと追いやったとも評される後花園天皇が遺勅によって光厳天皇陵に合葬された。
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