晩年と評価
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エジソンに負けて以来クロスは失意の日々となり、酒浸りの生活を送る。文学者の集まる酒場「ル・シャ・ノワール」で、しばしば客たちの要請に応じて「燻製にしん」を朗読したともいう。ヴィヤール夫人とは親密な関係を保っていたが、1877年に決裂し、クロスは翌年結婚した。 ヴェルレーヌとは離婚騒動の際に不仲になり、クロスの評価には加わることはなかった。1884年に出版されたJ.K.ユイスマンス『さかしま』では、1874年に『新世界評論』誌に掲載した短編小説「恋愛の科学」についてヴィリエ・ド・リラダンに比較して、「その化学的偏執、取澄ましたユーモア、ふざけた冷ややかな観察などによって、読者を煙にまくことに成功していたけれども、その書き方に、ある致命的な欠陥があったので、面白味は半減するしかなかった。」と評されている。1888年にクロスはパリで他界し、モンパルナス墓地に埋葬された。 死後30年を経てアンドレ・ブルトンらシュルレアリストによって再評価され、ブルトン『黒いユーモア選集』では「詩人として、学者としての彼の使命が一体化しているのは、彼がつねに自分の目標を、自然からその秘密の一部をもぎ取ることに置いていたという点に基づいている。」と紹介された。 息子のギー・シャルル・クロスも詩人。
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晩年と評価
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1905年、アバディーン大学から名誉博士号を授与される。1910年に初めてノーベル文学賞にノミネートされ、その後にも11回ノミネートされた。 1911年にメリット勲章を授与され、また数々の名誉の学位を贈られた。1913年、ケンブリッジ大学から名誉博士号を授与される。1920年、オックスフォード大学から名誉博士号を授与される。1922年、セント・アンドリュー大学から名誉博士号を授与される。 1912年に最初の妻を亡くすが、2年後の1914年に39歳年下の秘書フロレンス・エミリー・ダグデイル (Florence Emily Dugdale) と再婚した。しかし前妻が忘れがたく、詩を書いたりして気を紛らわせた。1928年、風邪が原因となり、マックス・ゲートで永眠した。87歳没。ウェストミンスター寺院で国葬にされ、火葬後の灰は後妻とのウェストミンスター大聖堂「詩人のコーナー」の墓に、心臓のみは前妻とのスティングスフォード教会の墓に埋葬された。 現代では自然主義の古典として再評価され、世界中で愛読されており、特にハーディ最後の作品『日陰者ジュード』は古典英文学の定番と言われるほどになっている。『帰郷』『カスターブリッジの市長』『テス』『日陰者ジュード』がハーディの四大小説と言われている。 若い頃は敬虔なキリスト教徒で、日曜には家族とともに教会でヴァイオリンを演奏することもあった。しかし、ヴィクトリア朝の風潮に加えて、ダーウィン著の『種の起源』により懐疑的になる。牧歌的な描写に長け、ウェセックス地方(現在のドーチェスター一帯)を物語の舞台とした作品が多く、その作風は宿命論を想起させるものが多い。 動物福祉に強い関心があり、家畜や動物が受ける痛みや苦しみを描写し、登場人物がその苦痛に共感するシーンを取り入れた作品が多い。悲観主義的と批判される事も多かったが、ハーディは自身を改善論者と称したように、作品を通じて読者の「他者の苦しみへの共感」を培うことで社会改善に貢献することを目指していた。 ハーディの死後まもなく、遺言執行者によってハーディの手紙とノートが焼却されたが、12冊のノートが残存し、その1冊では1820年代の新聞記事が残されていて、ハーディがそれらを作品に活用したかの研究に供された。 ハーディの死の翌年、夫人によって『The Early Life of Thomas Hardy, 1841–1891』が出版され、当時のノート、手紙、自伝的な覚え書きなどが、長年の口伝えであるかのように編集されていた。 ハーディの業績は、D.H.ローレンス、ジョン・クーパー・ポウイス、ヴァージニア・ウルフら若い作家たちからから賞賛された。 ヴァージニア・ウルフはハーディ没時において「トマス・ハーディの死によってイギリス小説界は指導者を失ってしまった」「かくして、ハーディの与えてくれたものは、或る時代の或る場所における生の単なる写し換えではない。それは力強い想像力、深い深い詩的な天才、高尚で仁慈な魂に映じたままの、世界と人間の運命との幻影なのである」(「トマス・ハーディ論」(『一般読者』第2集))と述べている。ロバート・グレーヴス『さらば古きものよ』では、1920年代にドーセットでハーディに会い、ハーディが彼とその妻を温かく受け入れてくれて、それが励みとなったことが思い起こされている。ドーチェスターにあるハーディの生地と、マックスゲートは、ナショナル・トラストが保有している。
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