日食観測
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「2006年3月29日の日食」の記事における「日食観測」の解説
パリ天文台は学生とコーディネーターなどを観測隊として、ベナンサバルー(英語: Savalou)に派遣した。現地の皆既食の始まりが9:18:27(UTC)で、観測隊は画質の良いコロナの写真を撮った。また、トルコ海岸に近い、ギリシャのカステロリゾ島は欧州連合の領土のうち皆既帯が通過した唯一の場所だった。現地の皆既食の始まりは約10:53(UTC)で、皆既食の持続時間は約3分だった。アメリカのウィリアムズ大学は島で複数の実験を行い、コロナを写真を撮った。地面と宇宙から撮った太陽の写真を比べて研究するため、SOHO探査機も同時に宇宙から観測した。もう一つの研究は多重散乱が存在する環境で3D模型で皆既帯のうちの光度を推計することだった。実験はモンテカルロ法で空の色と明るさを予測し、コロナが直接照射することによる影響も研究した。それらの目的は今後の日射量研究を計画して最適化することだった。ロシアの科学者は北コーカサスに位置する雪山に囲まれた、ヨーロッパ最高峰エルブルス山(標高5642メートル)から25キロ離れた、標高1800メートルのバクサン川(英語: Baksan)渓谷で皆既日食を観測し、コロナの偏光などの現象を研究した。 当時ムアンマル・アル=カッザーフィーが指導したリビアはパンアメリカン航空103便爆破事件で制裁され、アルコールも厳格に禁止され、地中海沿岸で観光客が一番少ない地域だった。観光業を推進するため、リビア政府は5つの国営観光会社を動員して、大量の観光客に対応した。またサハラ砂漠の内部に位置する、観測条件が極めて良いワウアンナムス(英語: Waw an Namus)地区で7000人を収容できるテント村を建設した。ただし、テント村に入ることが許可されたのは天文学者のみで、一般の観光客はエジプトとの国境付近のバタン地区にガイドされた。しかし、リビアは各国の観光客を誘致しようとしても、イスラエル人に対する入国禁止は解除されなかった。アメリカNASAの科学者もリビアの科学者と合同に観測と研究を行い、写真とビデオを撮った。 中国天文学会は20人の観測隊をエジプトサルーム (エジプト)(英語: Sallum)に派遣した。当地はリビアと国境を接し、リビアと同じく良い天気に恵まれた。観測が成功して、観測隊はベイリー・ビーズ、コロナ、紅炎などの写真を撮った。当時のエジプト大統領ホスニー・ムバーラクと国防大臣ムハンマド・フセイン・タンターウィーなどの官僚らもヘリコプターで現地に訪れ、各国の科学者と観光者と共に皆既日食を観測した。
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日食観測
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「日食#19世紀」も参照 科学データの収集に努めたメンゼルは、日食観測の機会をもとめてなんども探検の旅をしている。1936年6月19日の皆既日食はロシアの草原(南西シベリアのアクブラク Ak Bulak)でハーバード大学・MIT合同遠征隊の観測を率いた。1945年7月9日の日食はアメリカ・カナダ合同遠征隊をサスカチュワン州で指揮、あいにく曇天に見舞われている。また皆既日食の観測にたびたび臨み、その多くで遠征隊を指揮した。 1923年9月10日 カリフォルニア州サンタカタリナ島 (曇天) 1930年4月28日 同州キャンプトンビル (en) 1932年8月31日 メイン州フライバーグ (en) 1954年6月30日 ミネソタ州ミネアポリス - セントポール 1959年10月2日 マサチューセッツ州大西洋岸 1951年2月15日 北部イタリア 1963年7月20日 メイン州オロノ(en、曇り) 1966年5月20日 ギリシャ・アテネ、Sunion Road 1966年11月12日 ペルーアレキパ県 1970年3月7日 オアハカ州南部のミアファトラン(en) 1972年7月10日 カナダ・プリンスエドワード島 1973年6月30日 西モーリタニア メンゼルは日食観測の回数では世界一と自認しており、非公認ではあったが、この「座」はのちに教え子で同僚、また共同執筆者となるジェイ・パサチョフ(英語版)に譲る。 1930年代末、太陽観測専門の観測所をコロラド州クライマックス(en)に築くと、皆既日食観測用を模倣した天体望遠鏡を据え、同僚とともに太陽コロナの観測と虚空に吹き上げるプロミネンスの撮影に取り組んだ。当初は太陽観測に熱心だったが、やがてガス状の星雲に関心を移す。ローレンス・オーラー(en)およびジェイムズ・G・ベイカーとの共同研究により、惑星状星雲の基本原則をいくつも解明するに至った。 フィールドガイドの定本ピーターソン(英語版)・シリーズに星と天体の図鑑 A Field Guide to the Stars and Planetsの初版 (1964年) を執筆。最近年の論文でメンゼルが披露した結論とは、シュヴァルツシルト解の考察に基づくブラックホールの不存在と、あくまでも物語に過ぎないと論断した。 メンゼルは1965年に『ギャラクシー・サイエンス・フィクション』誌に自作の"Fin's Funeral" が掲載された科学小説家でもあった。また水彩画も描き、3次元の「穴」が貫くクレーターや雲、宇宙船、宇宙人などを主題にした。
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