日活へ
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1935年、日活京都撮影所に入社。『関の弥太ッぺ』、中里介山原作の『大菩薩峠』を山中と共同監督したほか、前進座がユニット出演した『股旅千一夜』などを監督した。1938年、山中貞雄が戦死すると、友人たちで「山中会」を結成した。その後も1940年に片岡千恵蔵主演の『宮本武蔵』三部作を、1941年に『海を渡る祭礼』、阪東妻三郎主演の『江戸最後の日』などといった時代劇の大作や話題作を製作。太平洋戦争開戦後は、撮影所の文化委員長を務める。 1943年、病床の伊丹が脚本を書いた『無法松の一生』を監督。同作は戦前の日本映画を代表する名作といわれるが、人力車夫・無法松が軍人の未亡人に愛の告白をするという場面が時局に合わないとして、検閲でカットされた。 1944年、日華合作映画『狼火は上海に揚る』(大映・中華電影)を阪妻主演で製作。上海で8カ月にわたるロケを行った力作だったが、日本も上海も空襲で観劇のゆとりはなかったという。 1945年、撮影所の企画室で、阪妻とともに終戦を迎える。稲垣と阪妻は黙って手を握り合ったという。戦後は『最後の攘夷党』でいち早く活動を開始した。 1947年、東横映画の第1作となった現代劇『こころ月の如く』を監督。脚本の「藤木弓」は稲垣のペンネームである。
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日活へ
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同年8月、当時日活の装置部にいた波多野安正から日活京都撮影所の女優採用試験を受けるよう薦められ、同撮影所に入社する。池永浩久撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を浦辺粂子とした。同年公開の尾上松之助主演『馬子唄』がデビュー作となり、日活旧劇女優としては岩井咲子に続く第2号ということになったが、ついた役は女中や腰元ばかりであった。同年11月、日活向島撮影所が閉鎖され、向島の所属者が京都撮影所に合流して、第二部の名称で現代劇部が設立されると、浦辺も第二部へ移る。 1924年(大正13年)、村田実監督の『お光と清三郎』、細山喜代松監督の『街の物語』に端役でテスト出演して合格し、村田監督・吉田絃二郎原作の『清作の妻』でヒロイン・お兼役に起用される。村の模範青年・清作と結婚して村人から白い眼で見られていた妾上がりのお兼は、清作の2度目の出征を嫌がって彼の眼をかんざしで突き刺すが、刑期を終えて出所すると村人の反目が激しくなり、夫と自殺を遂げる、という物語で、映画経験も浅く無名だった粂子はこの難役を見事に演じきり、一躍性格女優として注目を浴びた。続いて溝口健二監督の『塵境』で鈴木傳明の相手役を務め、流し芸人のお松を演じる。この演技で古川緑波に「誇張ではない。この映画における浦辺粂子嬢の演技を見た時、日本にもこれだけ演れる女優がいてくれたかと、涙ぐましいほど嬉しかった。立派な演技である」(『キネマ旬報』第160号)と絶賛され、演技派スターとしての地位を決定づけた。ブラスコ・イバニェスの小説を翻案した村田監督の『お澄と母』では、貧窮の生活から逃れようと芸者になり、金持ちの妾となって哀れな母を捨てるという虚栄のドライ娘を好演。女の執念をはらんだエゴイスティックな女性という至難の役どころを的確に演じた。
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日活へ
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慶應義塾女子高校では演劇部に所属、幼い頃に映画関係者にスカウトされたこともあり、両親に無断で日活のオーディションを受けトップ合格。娘の芸能界入りに、母親は賛成したが厳格な父親は猛反対。「駄目なら高校もやめる」としてついに父親が根負け、日活第3期ニューフェイスとして日活に入社。同期に二谷英明、小林旭がいる。 高校卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に進学するが、仕事が忙しくなり中退。 1957年(昭和32年)、『肉体の反抗』が大ヒット、筑波の身体を張った演技が話題となり、筑波主演の「肉体シリーズ」が日活のドル箱となる。 新人賞を受賞し、仕事には恵まれたが、もともと体があまり丈夫でなく、一本撮り終えるごとに2週間の入院静養を余儀なくされ、初恋の男性の急逝もあって酒浸りとなる。また「肉体派女優」というレッテルを私生活にまで貼られ、心身疲労。ついに虫垂破裂で横浜のレストランで倒れ、緊急入院。きわどい瀬戸際だったといい、「救われた命だから生活を一から変えよう」と決意、これを機に渡米を考える。
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