日本のサブカルチャーにおけるループもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 08:09 UTC 版)
「ループもの」の記事における「日本のサブカルチャーにおけるループもの」の解説
1960年代 日本の文学におけるループものとして最も有名なものとして、1967年に発表された筒井康隆による小説『時をかける少女』が挙げられる。タイムリープ能力を得た主人公の少女が、時間遡行を何度か繰り返すことで「身の回りに起こる不可思議な事件」を解決していく。その後、未来から来た少年と出会い、両思いになるも少年は未来へと帰り、記憶を消された少女はいつか出会うはずの誰かを待ち続ける……という、サスペンス要素や青春、ラブロマンスを交えて描いたSF小説である。 本作はその後、幾度かのテレビドラマ化、映画化された後、主人公を別にしたストーリーでアニメ映画化されるなど、9回にわたって映像化がなされ、「ループ物」を説明される際には欠かすことができない作品と言える。 1980年代 日本のサブカルチャーにおけるループものの先駆的・古典的な作品として1984年公開の劇場アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が挙げられる。この作品以降、オタク文化ではループものの作品が多数制作され、それらはしばしばオタク自身の姿を写したものとして論じられる。オタクはしばしば漫画・アニメといったコンテンツを一方的に消費するだけでなくそれらを元にした二次創作物(同人誌・MADムービーなど)を発表しているが、そのような行為自体が原作となる物語を反復しているともいえる。 批評家の東浩紀は、ループものがオタク文化で特に好まれている理由として、成熟拒否的で幼児性に固執しがちと論じられるオタクにとっては同一期間を反復して過ごし続けるループものの主人公は感情移入しやすい存在なのかもしれない、と推測している。 社会学者の大澤真幸は、反復に対して終わりを告げるということは偶有性(羅: endekomenon. 他でもありえたかもしれないという感覚)を必然性(こうでしかありえなかったという感覚)に置換するという「第三者の審級」を確認する操作にあたるとした上で、ループものの作品が大量に制作され好まれているという事実は現代社会において決着をつけることに困難を覚えるということ、つまり「第三者の審級」の撤退を示唆しているのではないかと述べている。 1990年代 ループものの作品は、セカイ系と呼ばれる一群の作品と親和性を持つ。セカイ系とは1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をきっかけとしてオタク文化を中心とした広範囲で発生した作品群で、非主体的な主人公の自意識の吐露が繰り返され、主人公とヒロインの関係性(近景)がそのまま世界規模の大問題(遠景)に直結して描かれるという特徴がある。 セカイ系作品にしばしばループ構造が導入されている理由(あるいはループものがセカイ系として論じられる理由)としては、ループものの作品ではループからの脱出の鍵として主人公とヒロインの恋愛感情のような個人的な関係性が設定されていることが多くそれがセカイ系の構造(近景と遠景の直結)と一致すること、そしてしばしば世界がループしていることを自覚しているのは主人公だけであると設定されているため必然的に心情・自意識の吐露が激しくなることが挙げられる。現実感覚を喪失した世界をシステム面で描くとループものに、シナリオ面で描くとセカイ系になると対比することもできる。 2000年代 2000年代に入ると、セカイ系の影響を受けながらライトノベルや美少女ゲームの分野にループ構造を備えた作品が散見されるようになる。東浩紀は、そういった作品においては単なるSF的ガジェットとしてループ構造が導入されているだけではなく、それが「ゲームの比喩」としてのメタフィクショナルな面を持っていることを指摘し、それを(作家・評論家の大塚英志が提示した「自然主義リアリズム/まんが・アニメ的リアリズム」を意識して)「ゲーム的リアリズム」として論じた。 コンピュータゲームの中でも特にアクションゲーム・シューティングゲームなどでは、プレイヤーはゲーム内での主人公(あるいは自機)を操作し、敵に倒されたりトラップにひっかかったりしてミスをしたらあらためてやりなおし(リセット可能な死)、その試行錯誤を経て少しずつ先に進んでいくという醍醐味があるが、このような発想と類似した「失敗(死)を繰り返しながらループからの脱出を目指す」という設定がゼロ年代のループものの作品には取り入れられている場合が多い(後述の『All You Need Is Kill』『ひぐらしのなく頃に』のほかアニメ映画『時をかける少女』など)。この背景には、ライトノベルの起源のひとつとしてテーブルトークRPGのリプレイをノベライズしたものがあることが挙げられる。 大塚英志は、(手塚治虫の「まんが記号説」をうけて)記号の集積でしかない漫画表現においていかに「(リセット不可能な)現実の死」を描くかということがまんが・アニメ的リアリズムの課題であるとして、ゲームのような(リセット可能な死を前提とした)小説を低く評価したが、東浩紀によれば一回性の生を描くためにこそ複数の生を体験しうるプレイヤーの視点を導入するゲーム的リアリズムの発想が効果を生むのだという。評論家の大森望は、ゲーム的リアリズムの議論はライトノベル・美少女ゲームに限らず日本の本格ミステリーについても適用できる、と述べている。 一方、評論家の浅羽通明は前述の東、大澤、宇野らによる分析を批判的に取り上げつつ、反復に逃避するようなプロットは『浦島太郎』のように古くからある仙境淹流譚の変形に過ぎず、ループものの類型は古今東西の作品にも広く見られることを指摘し、こうした日本におけるループものの流行を特別視してオタク文化と結びつける議論は、自分の専門分野内だけで議論を完結させがちな論者たちの見識の狭さを示しているだけではないかという、懐疑的な見解を述べている。
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