日本における永楽通宝
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平安時代から鎌倉時代にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた。 その中でも明の永楽帝の時期に永楽9年(1411年)から作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は当初は明の国内でも流通していたのだが信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗・破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭・鐚銭の流通が中心であったとされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見されそれらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから伺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い。 民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ、15世紀後半〜16世紀半ばまでの畿内においては永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中20〜30枚までの混入を認める)でしか流通しておらず、そのような宋銭重視政策を特に畿内の荘園領主が行ったため畿内では宋銭使い、東北や九州などの辺境などから次第に粗悪な銭(鐚銭:ビタ銭)数枚で精銭1文とする慣行が成立していくことで撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏・結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。やがて1560年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと中国からの銭の流入が途絶えたことにより銭不足に陥り、畿内では1560年代に貨幣経済から米経済、1570年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていたビタ銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)4枚=永楽銭1文という慣行が成立していった。 江戸時代に入ると江戸幕府が慶長11年(1606年)に独自の銅銭慶長通宝を鋳造して2年後には永楽銭の流通禁止令がだされ、この段階では慶長通宝の流通も充分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが、元和偃武後の寛永13年(1636年)には寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降、全国的に流通し始めると、永楽銭をはじめとする渡来銭などの旧銭は次第に駆逐されていった。 永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ、16世紀に入るまであまり流通しなかった。ところがこの事実には大きな問題があった。それは明で100年も以前に鋳造された銅銭が16世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝がまず彼らの手中に入る筈であるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかと言う点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって黒田明伸は16世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現して日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説を提唱した。折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高い事が判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある。また、川戸貴史は「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴った訳ではなく、特に時代が下るにつれて(1570年代以降)、「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含み得る)を指すなどの変化が見られ、(実物の)永楽通宝と「永楽銭」「永高」「永」の関係の再検討の必要性を指摘している。
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