文化・習俗
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間宮林蔵の足跡を追って北方を探検した髙橋大輔によれば、ニヴフ社会は「女尊男卑」の社会であり、『東韃紀行』にも、たとえその女性にどんな過失があっても女性を殺すことは許されないことが記されている。全体として数が少なく、早婚だったため女性は大切にされ、特に裁縫の上手な女性は非常に大切にされた。裁縫をしない女性は実家に帰されることもあったと伝わるので、女性たちは熱心に裁縫に励んだ。交易がさかんであったためか、社交的であり、結婚相手が他民族であってもいやがらない。これは、トナカイを飼い、それゆえ犬を飼う民族には近寄らず、異民族との結婚を極力避けようとする排他的なウィルタとは著しい対照を示している。また、男女ともに多情な気質で、結婚相手をめぐって刃傷沙汰におよぶこともあったという。 社会生活は氏族制の原理によって支配され、伝統的にはシャーマニズム(巫俗)を奉じてきた。シャーマン専用の服もあった。ただし、シャーマンの役割はニヴフにおいては必ずしも大きいものではなかったともいわれている。生者と死者の世界を取り結ぶ動物として、クマが大切にされてきた。熊祭りは、アムール川下流からサハリンにかけての諸民族に広がっており、ニヴフ・アイヌのほか、ウリチ族・オロチ族にもみられる。熊儀礼、物質文化、豊かな口承文芸の世界など、アイヌ文化との共通点も少なくない。 なお、ロシアの文学者アントン・チェーホフは1890年にサハリン(樺太)に渡り、ルポルタージュ『サハリン島』(1893年発表)を著述し、ニヴフ民族に関する記述を残している。しかし、そこに示されたニヴフの文化や習俗、社会生活に関する記述は、村上春樹の小説『1Q84』(2009年、2010年)にも引用されるなど影響力が大きく、たいへん有名である一方、正確さに欠ける箇所も多く、検証を要する部分も少なくない。
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文化・習俗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:27 UTC 版)
おはぎの原型はもち米と小豆を炊いたもので作られていた。しかし、明治以降、砂糖が庶民の手の届くものとなり、次第に現在のように甘いおはぎが作られるようになった[要出典](ただし砂糖の普及前の加糖甘味料としては水飴が用いられていた)。また、小豆には邪気を払う効果があると信じられていたために、邪気を払う食べ物としての先祖の供養の際にお供えをしたのがはじまりとされている。このため、彼岸や四十九日の忌明けに食べる風習が定着したものと考えられる。 大きく作った牡丹餅を赤子に踏ませ、成長を祈る習俗がある。 子供が産まれて3日目に、母親の乳が出るように「みつめのぼたもち」と呼ばれる大きなぼたもちを食べさせる地域がある。 戦国時代の武将立花宗茂の正妻である立花誾千代は、彼女の墓石の形状から現在では「ぼたもち様」とも呼ばれている。 きな粉とゴマ 文永8年(1271年)9月12日、日蓮が鎌倉の龍ノ口の刑場へ引き立てられていった。急を聞いた桟敷の尼が、何か最後のご供養をと考えたが、餡を作る時間がなく、きな粉とゴマをまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという。日蓮は難を免れ、佐渡に流罪となった。この故事にちなみ、日蓮宗では陰暦9月12日に、「御難の餅」というゴマのぼたもちを作って供える。また、「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などとも呼ばれている。
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文化・習俗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 10:49 UTC 版)
伝統的住居はエヴェンキ(キーリン)やオロチョンなど他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を毛皮で覆った天幕式住居であった。円錐形のものと棟を設けるものがある。屋根の覆いは冬季にあっては綴り合せたカバノキの樹皮もしくは魚皮、初夏から秋にかけては剥いだ雑木の皮を用いる。 衣服のうち、肌の上に着る物の多くは魚皮製であった。獣皮の衣服も用いられ、木綿衣はウリチ(山丹人)との交易で入手したという。キツネの皮を利用した手袋なども用いていた。 男子のヘアスタイルは主に斬髪、女子は辮髪である。 「イルガ」と呼ばれる独特の切り紙文化がある。
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