文化・芸事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)
人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。 文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎、連歌を里村紹巴、茶の湯を千利休、有識故実を今出川晴季、禅を西笑承兌、儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ。 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田織部でもなく、秀吉であるとする評価もある。一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。しかし、多く輸入され現地では雑器だが、日本では茶壷として珍重されていたルソン壺を、秀吉自身が7個を若狭小浜の豪商の組屋に売りさばかせ、6個売れて代金として134両もの大金を手に入れていて、秀吉も商売はしている。この話は、小瀬甫庵の太閤記に、文禄2年(1593年)呂宋助左衛門がルソン壺50個を秀吉の元に持ち込んで、秀吉が千利休と相談し大坂城西の丸に並べて、売りさばき、残った壺は秀吉が買い、助左衛門は大金持ちになったという、商売にたけた雰囲気を伝える創作話として書かれた。 能筆家であった。北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。 囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい[要出典]。将棋に関してはあまり強くないとされ、太閤将棋は秀吉が有利になるように考案された手合割とされる。
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