戦局への影響
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「ブレクール砲塁攻略戦」の記事における「戦局への影響」の解説
ユタ・ビーチに上陸した部隊は、この砲塁が無力化されたこともあり、比較的損害が軽微であった。第506連隊隊長ロバート・シンク大佐は、ウィンターズを名誉勲章に推薦したが、名誉勲章は各師団1名だけが授与できるものとされており、第101空挺師団からはロバート・コール中佐に授与されることになったため、ウィンターズには殊勲十字章が授与された。2007年1月31日、ティム・ホールデン(英語版)下院議員が提案者となり、ウィンターズに改めて名誉勲章を贈る為の法案を第796下院法案(H.R. 796)としてアメリカ合衆国議会(第110議会(英語版))に提出したが、採択には至らなかった。 ノルマンディー上陸作戦(D-デイ)の公式記録はこの戦闘に触れていない。軍事史家S.L.A. マーシャルがこの戦闘についてウィンターズに取材したことがあるが、この取材にはウィンターズの上官が多数同席していたこともあり、ウィンターズの回顧録『Beyond Band of Brothers』に記述されているように、ウィンターズは個人的な称賛を避け説明を簡潔なままにしておくために、この出来事を控え目に述べたものと思われる。マーシャルの報告によると、当時ウィンターズは約200名の部下を指揮下においていたが、ほぼ全員がこの戦闘におけるウィンターズの役割を高く評価した。
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戦局への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
ドイツの初期の攻勢は連合国を驚かせ、いくつかは成功したが西部戦線での主導権を奪還するに至らなかった。当初予定していたドイツの目標は達成出来ず、「バルジの戦い」は多くの損害を生み出し、連合国の反撃により、押し戻される結果になった。 しかし、「バルジの戦い」によって西部戦線は完全に歪められ、結果的にドイツは東西から同時にベルリンを攻撃されることを阻止した。1月12日に予定を早めてヴィスワ=オーデル攻勢を開始したソ連軍に対して、同じ時期のアメリカ・イギリス軍はアルデンヌ戦線内に残存しているドイツ軍と苦闘を重ねながら、「バルジ」の一歩一歩奪還を余儀なくされていた。また、ドイツ軍の西部戦線への戦力集中は一時的にソ連軍の進撃を容易にし、戦後の東西冷戦のパワーバランスにも少なからず影響を与えた。イギリス首相のウィンストン・チャーチルが1月6日にヨシフ・スターリンに東部戦線からドイツに圧力をかけてほしいと要請したこともあって、ソ連軍が西側連合軍を救ったとのプロパガンダにも利用されて、ソ連軍によるベルリン攻略を後押しすることにもなった。戦後にはアメリカが大戦中に行った莫大なソ連へのレンドリースの返済について、「1945年1月のソ連軍の攻勢によってアメリカ軍イギリス軍の危機は取り除かれた」ため、ソ連のアメリカに対する債務は全て消滅したとの主張の論拠にもなった。 この作戦がドイツ軍として公式に完了した1月28日、ヒトラーは「アメリカ軍に甚大な損害を与えた」ことと「この攻勢が切迫していた戦局を極めて大幅に緩和した」と主張した。たしかに連合軍はザール地方への攻勢を諦めざるを得ず、ライン川に向けての最終攻勢(英語版)を2ヶ月延期することとなったが、「バルジの戦い」による甚大な損害によってライン川地域の防衛は弱体化しており、のちの連合軍の進撃に利することとなった。チャーチルは回想録で「これが戦争最後のドイツ軍の攻撃だった。それは少なからぬ不安を我々に抱かせ、我々の前進を遅らせることにはなったが、結局我々が得をした」「ドイツ軍は損害を補うことができず、これに続くライン川の戦闘は激烈なものではあったが、疑いもなく我々に楽なものとなった」「ドイツ最高司令部、そしてヒトラーでさえ失望したに違いない」と評している。 また、「バルジの戦い」の意外な効果としては、ドイツ軍の攻勢で歩兵師団が大損害を受けたこともあり、アイゼンハワーはアメリカ本国に増援の派遣を要請し、国内で訓練中の6個師団がヨーロッパ戦線に送られたが、そのうち2個師団は太平洋戦線に送られる予定であった師団であり、また、作戦での武器・弾薬の大量消費から、太平洋戦域への補給も一時的に停滞した。太平洋戦域での戦力不足が解消されるには時間を要し、1945年3月に開始された沖縄戦でアメリカ軍は死傷者最大75,753人と「バルジの戦い」に匹敵する大損害を被ったこともあって、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦の作戦計画を遅らせることとなった。ダウンフォール作戦の総司令官を務めるはずであったマッカーサーは、朝鮮戦争の際に陸軍参謀総長となっていたブラッドレーと対立して国連軍総司令官を更迭されたが、「バルジの戦い」のブラッドレーの作戦指揮について「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」や「彼(ブラッドレー)が指揮をとった「バルジの戦い」における死傷者数は、私がオーストラリアから東京までの南西太平洋全域で被った死傷者数とほとんど変わらない」と批判している。しかし、マッカーサーがフィリピンの奪還で被った損失は、戦闘での死傷者70,669人、戦闘外での傷病者10万人以上と実際にはバルジの戦いを大きく上回っていた 。 また、ヨーロッパへの増援によってアメリカ国内には、アメリカ陸軍の師団は1個もなくなり、戦力不足を補うため、これまでは、人種差別で認めていなかった黒人兵士の戦闘任務への投入が決定され、2,000人以上の黒人兵が戦闘任務を志願している。
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