損害と教訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の発表では1,252機(戦闘機隊によるものは九七式戦闘機が1048機、九五式戦闘機が48機)- 1,340機だった。陸軍は地上では負けていたものの航空戦は例外的勝利だと思い込んでいたふしがあり、その認識は戦後も消えなかった。第24戦隊長だった梼原秀見少佐は「確実撃墜じつに1200機を越え、我が方の損害50機足らず...類例のない嘘のような事実」と揚言し、従軍記者の入江徳郎は1958年に発売した著作「ホロンバイルの荒鷲」で「空中戦では文字通り圧倒していた」と回想した。しかし、1980年代以降には航空戦の実態が明らかとなっていき、飛行第11戦隊所属の滝山和大尉が「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は劣勢」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と証言した。またソビエト連邦の崩壊直前に訂正された数字によりソ連側の損失は定説よりはるかに少ない251機(うち非戦闘損失43機)航空兵戦死・行方不明159名、戦傷102名と判明。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還および全損は64機、うち九七戦は51機で戦死は53名)で最終的な損耗率は60%、最後には補給が追い付かず九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至っていた。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の八八式七糎野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされた[要出典]が、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機をはじめ多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤って度々ソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして[要出典]、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。
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