強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:47 UTC 版)
「リトアニアの歴史」の記事における「強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立」の解説
ドイツ軍のポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると、1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目しているあいだに、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入した。編入の経緯は次のようなものである。 ソ連はポーランド侵攻後、リトアニアに赤軍基地の設置を要請した。さらに1940年6月にはソ連共産党のモロトフが、リトアニアがラトヴィアやエストニアと反ソ連的軍事同盟を結び、赤軍兵士がリトアニアによって拷問されたという嘘にもとづく非難をはじめたあと、親ソビエト政権の樹立と赤軍の無制限駐留とを求め、拒否する場合は、軍事侵攻を開始するという最後通牒を手渡した。また、ソ連は、自国の国境警備隊兵士が誘拐され、それに関わったとされるリトアニアの政治家の追放、投獄を要求した。この誘拐事件はソビエトの自作自演と考えられている。すでにソ連は陽動作戦を行うスパイ集団をリトアニアの各都市に投入していた。 1940年6月14日に開かれた閣議では、スメトナ大統領は主戦論を唱えたが、政権内部はソビエトの要求を受け入れるのが大勢となった。翌日の6月15日、赤軍第3軍と第11軍がリトアニア侵攻を開始し、スメトナ大統領はアンタナス・メルキース(英語版)首相に大統領職を譲り、リトアニアは独立を失った。スメトナはドイツ経由でアメリカに亡命した。ソ連による強制編入に反対した者は弾圧され、抹殺された。 6月17日、反革命とサボタージュとの闘争のための非常委員会 (チェーカー)のウラジーミル・デカノゾフはリトアニア駐在公使となり、スメトナ政権に批判的で共産主義者だったジャーナリストのユスタス・パレツキス(英語版)らによる傀儡政権「人民政府」樹立を指示した。政権は詩人や歌手などリトアニアの著名人で構成され、首相の選任はリトアニア憲法の手続きによらずに行われた。 リトアニア共産党の党首スニエチクスが国家保安局局長になり、6月25日には共産党以外の政党の活動が禁止され、非共産主義の新聞や雑誌も禁止された。リトアニア軍は人民軍に改組され、警察署長、郡長などもソビエト支持者に交代させられた。共産党または共産主義者だけが立候補できる人民議会の選挙では、独立が維持されるとか農業集団化はないらしいといった噂が流れ、反ソ連的な著名人数百人が大量逮捕された。1940年7月6日、スニエチクス国家保安局長は、政府に抗議する者の逮捕、および各政党の指導者の一掃作戦を承認した。7月10日からの最初の大量逮捕で、政治家らが逮捕され、ソビエト以前の最後の首相だったメルキースや外相ウルプシースは家族ともに財産を没収されたうえで強制収容所に追放された。占領最初の1年間で6606人が逮捕され、その半数がシベリアなどの収容所に追放された 1940年7月14日から15日にリトアニア共産党の候補しか立候補できない選挙が行われた。7月14-15日の選挙では95%の有権者が選挙し、そのうち99%が謎の組織「リトアニア労働人民同盟」に投票した。この選挙結果を受けて、7月21日、人民議会(英語版)が開かれた。この日、人民議会はリトアニアの国名を「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」とすることを決定し、ソビエト連邦への加盟を満場一致で宣言した。翌7月22日の議会では土地、銀行、大企業の国有化が宣言された。1940年8月3日、ソビエト連邦最高会議はこれを認め、リトアニアは、ソビエト連邦構成共和国の一つとなった。しかし、占領者による人民議会の権限をリトアニア国民は自由選挙で付与したわけではなく、ロシア共産党による工作は違法であった。こうした併合に抗議した在外リトアニア外交官は全員市民権を剥奪され、財産も没収された。こうして、リトアニアのソ連への編入は「自発的な」加盟であるとされた。 なお、駐カウナス日本領事だった杉原千畝が、ユダヤ人に大量のビザを発給したのは1940年7月のことである。 8月26日には人民委員会議が最高執行機関であると発表され、ソビエト憲法(スターリン憲法)が採択された。リトアニアの内務人民委員部(NKVD)にはソ連から派遣された職員が就任していった。農業改革では、30ヘクタール以上の土地を持つ農民は「クラーク」とされ、土地は没収され、税金が三倍に引き上げられた。土地を持たない者には最大10ヘクタールの土地が与えられた。それ以外の土地は集団農場として利用された。通貨にはリーブルが導入され、銀行国有化によって預金も没収された。NKVDはソビエトに反対する者を夜間に逮捕し、追放された。1941年6月にはリトアニア住民1万7500人が北極海やアルタイ地方などで追放された。この大量追放では、元閣僚、元政治家、軍人、経済界、教師数百人、司祭79人、少数民族の指導者、子ども5060人、ユダヤ人2045人、ポーランド人1576人が含まれた。 リトアニア各地で40以上の大量虐殺事件が起きている。一方、独立を目指す地下活動も始まった。
※この「強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立」の解説は、「リトアニアの歴史」の解説の一部です。
「強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立」を含む「リトアニアの歴史」の記事については、「リトアニアの歴史」の概要を参照ください。
- 強制編入とリトアニア・ソビエトの樹立のページへのリンク