帝国議会議事堂での戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 帝国議会議事堂での戦いの意味・解説 

帝国議会議事堂での戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 22:02 UTC 版)

ベルリン市街戦」の記事における「帝国議会議事堂での戦い」の解説

4月30日ソビエト赤軍攻撃部隊ポーランド軍(主にポーランド第1タデウシュ・コシチュシュコ歩兵師団など)が加わった午前6時、第150狙撃兵師団ゲシュタポ本部のあったビルの上階をまだ占領していなかったが、そこでの戦闘継続しつつ、ケーニヒ広場ドイツ語版)を400mほど横切って帝国議会議事堂への攻撃開始したソビエト赤軍早急に攻撃開始したのは、帝国議会議事堂皮肉なことに帝国議会議事堂放火事件より後、ナチス体制では議会有名無実となり議事堂復旧されていなかったが)が第三帝国象徴であり、ソビエト赤軍はそれを誇るためにモスクワでのメーデーパレード前に占領したかったのであるドイツ軍ケーニヒ広場塹壕トンネル掘り、さらに崩れたトンネルシュプレー川入り込んでいたため、前進は容易ではなかった。最初歩兵による攻撃は、ケーニヒ広場西のクロル歌劇場帝国議会議事堂ら行われる十字砲火を受け、多く死傷したその頃シュプレー川仮設架橋され、戦車重砲が川を渡り始め、それらはクロル歌劇場北西から帝国議会議事堂攻撃支援射撃行った10時までに、第150狙撃兵師団塹壕占拠したが、そこから2kmほど離れた場所にあるティーアガルテンベルリン動物園)の高射砲塔からの88ミリ砲による正確な射撃が昼の間、ソビエト赤軍進撃妨げた占領までの数日間203ミリ榴弾砲カチューシャなど90門の砲列塹壕帝国議会議事堂砲撃し、第171狙撃兵師団正面、その左側面を第150狙撃兵師団布陣しケーニヒ広場北方建物占領するための攻撃続けた。そのため、周囲の建物から退去しドイツ兵らは帝国議会議事堂へと後退したその頃ベルリン中央部には約10,000人のドイツ兵がおり、各所攻撃受けていた。 ソビエト赤軍砲撃集中箇所のひとつはヴィルヘルム街(ドイツ語版)の航空省ビル鉄筋コンクリートでできていた)であったヘルマン・フォン・ザルツァ重戦車大隊残存ティーガーティーアガルテン南へ抜けて中央部進撃していたソビエト赤軍第3突撃軍と第8突撃軍へティーアガルテン東側から攻撃開始したが、これらのソビエト赤軍行動ドイツ軍西方への脱出困難にしていた。 翌日早朝モーンケヒトラーベルリン中央部はあと2日しか持たない伝えたまた、ヴァイトリングその日の内には弾薬使い果たすことになるとヒトラー伝え再度ベルリン脱出許可要請した13時、ヴァイトリングヒトラーより脱出許可与えられた。その後ヒトラーエヴァ自殺、その遺体焼却された。ヒトラー遺書により、ヨーゼフ・ゲッベルス国民啓蒙・宣伝大臣)が次期ドイツ首相になった15時15分ゲッベルスボルマンは、デーニッツアドルフ・ヒトラーの死次期大統領になるよう指名された旨を無線連絡した。 ベルリン市戦闘による煙のため夕暮れ早まったかのように見えた18時、ヴァイトリングがベンドラーブロックでベルリン脱出計画練っている間、ソビエト赤軍150狙撃兵師団重砲集中砲火の元、3個連隊帝国議会議事堂への攻撃開始した全ての窓が煉瓦塞がれていたが、なんとか正面ホールへの突入成功した内部にいたドイツ軍は約1,000人ほどで-水兵ヒトラー・ユーゲント武装SSなどが混成していた。-上の階から攻撃行い、まるで中世戦いのような戦闘続いたソビエト赤軍多大な犠牲払ってメインホール占拠したが、上の階を占領するには、さらに苦労重ねることになった火災砲撃によって帝国議会議事堂内はガレキ迷路化しており、さらには部屋ひとつひとつ攻略していかなければならず、時折すさまじ抵抗に出くわしたメーデーの日に近づいた日、ソビエト赤軍戦闘継続しつつも帝国議会議事堂屋根至った。 「ライヒスタークの赤旗」も参照 ソビエト赤軍2250分、帝国議会議事堂赤軍旗を立てた主張しているが、アントニー・ビーヴァーは「ソビエト赤軍5月1日までに帝国議会議事堂占拠することに拘りすぎていた」として、これが誇張であると指摘している。真実がどうであれ、帝国議会議事堂にいたドイツ軍300人は降伏した日の午後まで一日中戦い続けていた。ドイツ軍の他の将兵らは200人が戦死残り500人は最終攻防戦までに負傷し地下横たわっていた。 5月1日クレープス降伏交渉ソビエト赤軍第8親衛軍司令官チュイコフ行ったが、無条件降伏受け入れることを首相ゲッベルス拒否したため、クレープス空しく帰ったソビエト赤軍ドイツ軍無条件降伏しなかったため、10時45分ドイツ軍押し込まれている地帯に「火の嵐」のような攻撃開始したその日午後ゲッベルス子供に毒を飲ませ20時頃、妻のマクダとともにシアン化合物入ったカプセル噛み砕き同時に拳銃自殺した。彼らの遺体焼却処分するよう命じられていた。 ゲッベルス死後新たなドイツ大統領指名されていたデーニッツ提督は、後任首相にルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク任命したデーニッツ政府本部デンマーク国境に近いフレンスブルクにあり、デーニッツ政権フレンスブルク政府とも呼ばれるベルリン二つ高射砲塔降伏同意したため、ソビエト赤軍攻撃中止したティーアガルテン高射砲塔(それは203ミリ榴弾砲直撃にもびくともしなかった)は4月30日ソビエト赤軍より降伏するよう通達されていたが、5月1日降伏文書30日23時受領今日夜中降伏する回答した。これは高射砲塔守備隊員が夕方脱出するための時間稼ぎであった。もう一方シュパンダウ要塞ドイツ語版)は1630年ハーフェル川シュプレー川合流地点中州建てられたものであったが、4月30日ソビエト赤軍47軍は降伏勧告行ったその日15時要塞降伏したその後判明したが、実はこの要塞ドイツ化学兵器関連施設であった

※この「帝国議会議事堂での戦い」の解説は、「ベルリン市街戦」の解説の一部です。
「帝国議会議事堂での戦い」を含む「ベルリン市街戦」の記事については、「ベルリン市街戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帝国議会議事堂での戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帝国議会議事堂での戦い」の関連用語

帝国議会議事堂での戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帝国議会議事堂での戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのベルリン市街戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS