帝国議会議事堂での戦い
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「ベルリン市街戦」の記事における「帝国議会議事堂での戦い」の解説
4月30日、ソビエト赤軍攻撃部隊にポーランド軍(主にポーランド第1タデウシュ・コシチュシュコ歩兵師団など)が加わった。午前6時、第150狙撃兵師団はゲシュタポ本部のあったビルの上階をまだ占領していなかったが、そこでの戦闘を継続しつつ、ケーニヒ広場(ドイツ語版)を400mほど横切って帝国議会議事堂への攻撃を開始した。ソビエト赤軍が早急に攻撃を開始したのは、帝国議会議事堂(皮肉なことに帝国議会議事堂放火事件より後、ナチス体制では議会は有名無実となり議事堂も復旧されていなかったが)が第三帝国の象徴であり、ソビエト赤軍はそれを誇るためにモスクワでのメーデーパレード前に占領したかったのである。ドイツ軍はケーニヒ広場に塹壕やトンネルを掘り、さらに崩れたトンネルにシュプレー川の水が入り込んでいたため、前進は容易ではなかった。最初の歩兵による攻撃は、ケーニヒ広場西のクロル歌劇場と帝国議会議事堂から行われる十字砲火を受け、多くが死傷した。 その頃、シュプレー川に仮設橋が架橋され、戦車や重砲が川を渡り始め、それらはクロル歌劇場の北西から帝国議会議事堂攻撃の支援射撃を行った。10時までに、第150狙撃兵師団は塹壕を占拠したが、そこから2kmほど離れた場所にあるティーアガルテン(ベルリン動物園)の高射砲塔からの88ミリ砲による正確な射撃が昼の間、ソビエト赤軍の進撃を妨げた。占領までの数日間、203ミリ榴弾砲やカチューシャなど90門の砲列が塹壕や帝国議会議事堂を砲撃し、第171狙撃兵師団が正面、その左側面を第150狙撃兵師団と布陣し、ケーニヒ広場の北方の建物を占領するための攻撃を続けた。そのため、周囲の建物から退去したドイツ兵らは帝国議会議事堂へと後退した。その頃、ベルリン中央部には約10,000人のドイツ兵がおり、各所で攻撃を受けていた。 ソビエト赤軍砲撃の集中箇所のひとつはヴィルヘルム街(ドイツ語版)の航空省ビル(鉄筋コンクリートでできていた)であった。ヘルマン・フォン・ザルツァ重戦車大隊の残存ティーガーはティーアガルテンを南へ抜けて中央部へ進撃していたソビエト赤軍第3突撃軍と第8突撃軍へティーアガルテン東側から攻撃を開始したが、これらのソビエト赤軍の行動はドイツ軍の西方への脱出を困難にしていた。 翌日の早朝、モーンケはヒトラーにベルリン中央部はあと2日しか持たないと伝えた。また、ヴァイトリングはその日の内には弾薬を使い果たすことになるとヒトラーに伝え、再度、ベルリン脱出の許可を要請した。13時、ヴァイトリングはヒトラーより脱出の許可を与えられた。その後、ヒトラーとエヴァは自殺、その遺体は焼却された。ヒトラーの遺書により、ヨーゼフ・ゲッベルス(国民啓蒙・宣伝大臣)が次期ドイツ首相になった。15時15分、ゲッベルスとボルマンは、デーニッツにアドルフ・ヒトラーの死と次期大統領になるよう指名された旨を無線連絡した。 ベルリン市は戦闘による煙のため夕暮れが早まったかのように見えた。18時、ヴァイトリングがベンドラーブロックでベルリン脱出計画を練っている間、ソビエト赤軍第150狙撃兵師団は重砲の集中砲火の元、3個連隊で帝国議会議事堂への攻撃を開始した。全ての窓が煉瓦で塞がれていたが、なんとか正面ホールへの突入に成功した。内部にいたドイツ軍は約1,000人ほどで-水兵やヒトラー・ユーゲント、武装SSなどが混成していた。-上の階から攻撃を行い、まるで中世の戦いのような戦闘が続いた。ソビエト赤軍は多大な犠牲を払ってメインホールを占拠したが、上の階を占領するには、さらに苦労を重ねることになった。火災と砲撃によって帝国議会議事堂内はガレキの迷路と化しており、さらには部屋をひとつひとつを攻略していかなければならず、時折、すさまじい抵抗に出くわした。メーデーの日に近づいた日、ソビエト赤軍は戦闘を継続しつつも帝国議会議事堂の屋根に至った。 「ライヒスタークの赤旗」も参照 ソビエト赤軍は22時50分、帝国議会議事堂に赤軍旗を立てたと主張しているが、アントニー・ビーヴァーは「ソビエト赤軍は5月1日までに帝国議会議事堂を占拠することに拘りすぎていた」として、これが誇張であると指摘している。真実がどうであれ、帝国議会議事堂にいたドイツ軍300人は降伏した日の午後まで一日中戦い続けていた。ドイツ軍の他の将兵らは200人が戦死、残りの500人は最終攻防戦までに負傷し、地下に横たわっていた。 5月1日、クレープスは降伏交渉をソビエト赤軍第8親衛軍司令官チュイコフと行ったが、無条件降伏を受け入れることを首相ゲッベルスが拒否したため、クレープスは空しく帰った。ソビエト赤軍はドイツ軍が無条件降伏しなかったため、10時45分、ドイツ軍が押し込まれている地帯に「火の嵐」のような攻撃を開始した。その日の午後、ゲッベルスは子供に毒を飲ませ、20時頃、妻のマクダとともにシアン化合物の入ったカプセルを噛み砕き、同時に拳銃で自殺した。彼らの遺体は焼却処分するよう命じられていた。 ゲッベルスの死後、新たなドイツ大統領に指名されていたデーニッツ提督は、後任首相にルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクを任命した。デーニッツ政府の本部はデンマーク国境に近いフレンスブルクにあり、デーニッツ政権はフレンスブルク政府とも呼ばれる。 ベルリンの二つの高射砲塔も降伏に同意したため、ソビエト赤軍は攻撃を中止した。ティーアガルテンの高射砲塔(それは203ミリ榴弾砲の直撃にもびくともしなかった)は4月30日にソビエト赤軍より降伏するよう通達されていたが、5月1日、降伏文書は30日の23時に受領、今日の夜中に降伏すると回答した。これは高射砲塔の守備隊員が夕方に脱出するための時間稼ぎであった。もう一方、シュパンダウ要塞(ドイツ語版)は1630年にハーフェル川とシュプレー川の合流地点の中州に建てられたものであったが、4月30日、ソビエト赤軍第47軍は降伏勧告を行った。その日の15時、要塞は降伏した。その後判明したが、実はこの要塞はドイツの化学兵器関連施設であった。
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