帝国議会デビュー
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総選挙の結果、政友会はほぼ解散前の議席を維持し、民政党はやや議席を減らしたものの、これまで続いてきた既成政党の人気低落には歯止めがかった形となった。林内閣は居座りを決め込もうとするが、政友会と民政党の連携の前に総辞職した。元老西園寺公望や重臣らは、陸軍にも議会各派にも受け入れ可能な近衛文麿を総理とすることとし、1937年(昭和12年)6月4日、挙国一致内閣を標榜する第1次近衛内閣が成立する。 帝国議会開会の日程が決まり、三木ら無所属議員と小会派の議員らは有効な議会活動を行うために院内会派の結成を検討する。三木を含む無所属議員と国民同盟、旧昭和会などの小会派の議員が協議を重ね、第71帝国議会開会直前の7月21日には49名の衆議院議員で院内会派、第一議員倶楽部が結成されることになった。しかし三木は第一議員倶楽部には参加せずに、無所属議員の一部が参加する院内会派「第二控室」に所属することになった。第二控室は13名の議員で構成されており、第1回衆議院議員総選挙以降、連続当選を続けていた尾崎行雄ら、個性豊かなメンバーが揃っていた。当時三木は尾崎を議会の大先輩として仰いだという。 第71帝国議会開会前の6月17日夜、三木は東京を発って地元徳島県の選挙区に向かい、地元が抱える数々の課題について実態調査を行った。更に6月末から7月初旬にかけても地元の各町村役場をきめ細かく巡り、各町村の実情について調査した。その後も三木は議会報告を開催するなどかなり頻繁に地元入りして、選挙区との関係強化を図っていった。 三木の国会デビューとなった第71帝国議会では、7月31日に人造石油製造事業法外一件委員会の委員として初質問を行った。開会直前には盧溝橋事件が発生し、日中が全面衝突する事態へと発展していった。そのような中、閉会前に超党派の戦場慰問団の派遣が決定され、三木は小泉又次郎を団長とする中国方面の慰問団員となり、8月15日から9月3日にかけて、国会議員としての初外遊を行った。 三木の衆議院本会議での初質問は1938年(昭和13年)2月22日、第73帝国議会のことであった。本会議で三木は大蔵大臣賀屋興宣に対し、政府が提出した支那事変特別増税案に関して、増税が産業振興に悪影響を与える点、すでに多くの負担を担っている国民にとって更なる負担の増大となる点を批判し、増税を行う前提条件として富の偏在を正す必要があると指摘した。その上で真の挙国一致のためには、政府は国民に情報を伝え、政府の施策に納得してもらうことが必要であると主張した。1939年(昭和14年)2月14日、第74帝国議会の予算委員会報告に対する賛成演説でも、三木は政府が国民に対して情報をオープンにするよう主張、時局に乗じて利益を貪る者がいる反面、多くの国民が困窮している状況を指摘し、更には当時強まりつつあった統制経済の動きの行き過ぎを批判した。三木は議会政治家として民意の重視を訴え続けたが、一方その民意重視の姿勢は「戦争遂行に対する国民的熱意」に従うことに繋がり、三木の議会での活動は基本的に戦時体制に肯定的なものとなった。
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