市場移転決定まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 20:51 UTC 版)
「築地市場移転問題」の記事における「市場移転決定まで」の解説
築地市場は1935年(昭和10年)に開場して以降、戦後の取引量増大や輸送形態の転換で次第に手狭となっており、年を追うごとに深刻化していた。 搬出入車両や場内車両、および歩行者の動線が錯綜することによる場内事故の危険性 搬入の大型トラックの入場待ちが長時間化することによる交通安全上の問題、および商品の鮮度維持の問題 新たな設備を設置する場所がなく、需要の変化に対応できない 屋根のみで壁がない開放型の施設が多く、商品が風雨にさらされたり温度管理が不十分なまま仮置きされる 鉄道による搬出入を前提とした構造(東京市場駅)も、戦後の取引量増大や自動車輸送への転換により、実態にそぐわない これに伴い、1950年代後半(昭和30年代)から仲卸売場の増設や屋上駐車場などといった施設の整備が行われ、同時に大井に大規模市場を建設する構想も上がった。 都は1970年代から移転を検討し始めるが、市場関係者の反対により実現せずにいた。1972年(昭和47年)、都は「第一次東京都卸売市場整備計画(以下、第x次計画)」の中で、既設市場の機能分散を目的として大井に市場を建設する旨を表明する。またその後の1977年(昭和52年)の第2次計画、1982年(昭和57年)の第3次計画にも同様の言及があり、都は大井市場建設による築地市場の過密解消を強く推進したが、水産業界は第3次計画策定と前後して行われた都の調査に対して「移転反対」との統一見解を出し、1985年(昭和60年)には築地本願寺で大井市場への機能分散に反対する総決起集会が開かれるまでに至った。 1986年(昭和61年)、都は東京都首脳部会議で「築地市場は移転せず現在地で再整備を行う」旨を決定し、これと前後して「築地市場再整備協議会(以下、協議会)」が設置された。1988年(昭和63年)に策定された「築地市場再整備基本計画」では、再整備後の築地市場は水産部が1階、青果部が2階、駐車場は屋上という立体的構造になることが発表され、翌々年には工期14年、総工費2380億円との試算が出された。 1991年(平成3年)の第5次計画でも改めて再整備について言及し、同時に仮設駐車場や仮設卸売市場などの建設工事が開始されたが、工事開始後から工期の遅れや整備費の増加(再試算で3400億円とされた)、および機器の移動や貨物の保管場所に関する場内業者との調整が難航するなどといった問題が顕在化し、都は基本計画の見直しを行わざるをえなくなる。 この結果、1996年(平成8年)の第6次計画では各部の施設を階層別配置ではなく平面配置として再計画することが提示されたが、工事が長期化するなどの懸念が上がり、業界6団体連盟は1998年(平成10年)、都に移転の可能性について調査・検討するよう求めた。しかし業界でも移転派と再整備派で分かれており、協議会はひとまず従来通りの再整備案を中心に協議を行う。1999年(平成11年)に行われた協議では、再整備案について以下のような問題点が浮き彫りとなった。 営業を継続しながら少ない工事用地で再整備を完了させるには20年以上が必要で、費用の更なる増大が予想される 工事による場内の混雑や動線の制約などで顧客離れが起き、営業にも深刻な影響が出る 工事が完了しても施設規模は従来施設を若干上回るだけで、積弊の根本的解決は果たせない 築地市場は従来の業務集積地である銀座や新橋から2キロ弱という立地、また戦前から稼働してきた伝統と歴史という点では大きな利があるが、その面積では将来的にも時代の変遷や流通の変化に対応できないとされ、同年中に業界と都の間で移転整備へ方向転換すべきことが確認された。2001年(平成13年)の第7次計画でも、豊洲への移転が明記された。豊洲とされたのは、用地確保や立地の面で市場に適していると判断されたためである。 (以上、年表は東京都の築地市場移転決定に至る経緯を参照のこと) 1999年(平成11年)から2012年(平成24年)まで東京都知事であった石原慎太郎は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」と述べており、また石原が2007年の都知事選挙に於いて三選された後の記者会見を行った際も「築地市場には大量のアスベストが存在しており移転は必要である」と発言している。
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