市場町・岩渕の成立とは? わかりやすく解説

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市場町・岩渕の成立(中世まで)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 08:44 UTC 版)

岩渕 (伊勢市)」の記事における「市場町・岩渕の成立(中世まで)」の解説

岩渕には「箕曲七塚」と呼ばれた塚があったが、被葬者築造年代はすべて不明で、1903年明治36年)に滅失した。 『度会系本』に「一禰宜氏守号二岩淵牛草一」という記述があり、度会氏守が禰宜任官されたのは長元8年1035年)のことであることから、平安時代には地名として使われていた可能性がある。年代がはっきりとした文献上の初出は、『外宮嘉禄三年山口祭記』であり、同書安貞3年2月20日ユリウス暦1229年3月17日)の条に「今月二十日遂行すべきの由、造営御文到来す。然らば正文出来の間、十九日、これを勤行す。当日午時造営使殿宣親、里亭・岩淵より直に参宮す。」とある。この記述から鎌倉時代岩淵に「里亭」と称する宿館が存在し山口祭神宮式年遷宮最初行事)の際に造宮使滞在していたことが分かる。里亭の詳細不明ながら、朝廷から派遣されるくらいの上級の客人宿泊する施設であった考えられる当時岩淵継橋郷に属し豊受大神宮外宮)のある山田村には含まれていなかった。また岩淵ではなく池町一部占める小地域に過ぎなかった。池町外宮神官家である度会氏の館を中心に発展した一方農村的な性格帯びたであった推定される正安3年1301年)から興国3年1342年)にかけて、岩淵寺領だと主張する釈尊寺神宮神人との間で長い相論発生した岩淵発展契機は、下市場置かれたことにある。下市場とは上市場(現・八日市場町)に対する名称で、3の付く日に市場開かれたことから三日市場とも呼ばれた下市場存在延元4年1339年)の史料確認でき、13世紀末には既に存在した推定される。この市では、伊勢平野南部農産物志摩地方水産物取引されたようである。市が立ったことで岩淵は、池町一部から逆に池町包摂するようになり、「岩淵郷」を形成するまでになり、自治組織山田三方構成する「方」の一角を成すに至った。『氏経神事記』の寛正6年7月4日ユリウス暦1465年7月26日)の条には、岩淵郷民20人が小田造営関所押し入って関銭強奪し逃走したため、住家焼き払い下地没収したという記録がある。また外宮内宮皇大神宮)の神人対立による宇治山田合戦では、文明17年6月3日ユリウス暦1485年7月14日)に宇治輩(内宮側)が岩淵乱入した

※この「市場町・岩渕の成立(中世まで)」の解説は、「岩渕 (伊勢市)」の解説の一部です。
「市場町・岩渕の成立(中世まで)」を含む「岩渕 (伊勢市)」の記事については、「岩渕 (伊勢市)」の概要を参照ください。

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