市場町・岩渕の成立(中世まで)
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「岩渕 (伊勢市)」の記事における「市場町・岩渕の成立(中世まで)」の解説
岩渕には「箕曲七塚」と呼ばれた塚があったが、被葬者や築造年代はすべて不明で、1903年(明治36年)に滅失した。 『度会系本』に「一禰宜氏守号二岩淵牛草一」という記述があり、度会氏守が禰宜に任官されたのは長元8年(1035年)のことであることから、平安時代には地名として使われていた可能性がある。年代がはっきりとした文献上の初出は、『外宮嘉禄三年山口祭記』であり、同書の安貞3年2月20日(ユリウス暦:1229年3月17日)の条に「今月二十日、遂行すべきの由、造営所御文到来す。然らば正文出来の間、十九日、これを勤行す。当日午時、造営使殿宣親、里亭・岩淵より直に参宮す。」とある。この記述から鎌倉時代の岩淵に「里亭」と称する宿館が存在し、山口祭(神宮式年遷宮の最初の行事)の際に造宮使が滞在していたことが分かる。里亭の詳細は不明ながら、朝廷から派遣されるくらいの上級の客人が宿泊する施設であったと考えられる。当時の岩淵は継橋郷に属し、豊受大神宮(外宮)のある山田村には含まれていなかった。また岩淵は村名ではなく、池町村の一部を占める小地域に過ぎなかった。池町村は外宮の神官家である度会氏の館を中心に発展した一方、農村的な性格を帯びた村であったと推定される。正安3年(1301年)から興国3年(1342年)にかけて、岩淵を寺領だと主張する釈尊寺と神宮の神人との間で長い相論が発生した。 岩淵の発展の契機は、下市場が置かれたことにある。下市場とは上市場(現・八日市場町)に対する名称で、3の付く日に市場が開かれたことから三日市場とも呼ばれた。下市場の存在は延元4年(1339年)の史料で確認でき、13世紀末には既に存在したと推定される。この市では、伊勢平野南部の農産物や志摩地方の水産物が取引されたようである。市が立ったことで岩淵は、池町村の一部から逆に池町村を包摂するようになり、「岩淵郷」を形成するまでになり、自治組織・山田三方を構成する「方」の一角を成すに至った。『氏経神事記』の寛正6年7月4日(ユリウス暦:1465年7月26日)の条には、岩淵郷民20人が小田造営関所に押し入って関銭を強奪し逃走したため、住家を焼き払い下地を没収したという記録がある。また外宮と内宮(皇大神宮)の神人の対立による宇治山田合戦では、文明17年6月3日(ユリウス暦:1485年7月14日)に宇治輩(内宮側)が岩淵に乱入した。
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