古典期ギリシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:39 UTC 版)
地球球体説を示す最古の史料は古代ギリシアの文献に遡る。大地が球体であることがどのようにして発見されたのかについての説明はそこにはないが、東地中海沿岸(特にナイル川デルタとクリミアの間)においてギリシア人の移住の際の劇的な変化であった周極する星々の測定しうる高度と位置の変化を説明するための旅行家の提案ではないかと考えられる。 ディオゲネス・ラエルティオスによると、「ピュタゴラスは大地が丸いと言った最初のギリシア人であった。しかしテオフラストスはこれをパルメニデスに帰し、エレアのゼノンはヘシオドスに帰した。」 ピュタゴラス 初期のギリシア哲学者達は地球球体説を唱えたが、いくらか曖昧なやり方でそれに言及した。彼らの中でも特にピュタゴラス(紀元前6世紀)が球体説の創始者とされるが、これは、あらゆる発見を古代の賢者の数人に帰そうとする古代ギリシア人の慣習による可能性がある。ある程度の地球球体説は紀元前5世紀のパルメニデスやエンペドクレスにも知られており、高い信頼性をもって球体説をピュタゴラスに帰することはできないが、それにもかかわらず、球体説は紀元前5世紀にピュタゴラス派によって明文化された。紀元前5世紀以降、声望あるギリシア人著述家で大地が球形以外の形だと考える者はいなくなった。 ヘロドトス ヘロドトスは紀元前431年-紀元前425年に書いた『歴史』において、太陽が北から照らしたという報告を疑っている。この疑いは、エジプトのネコ2世の治世(紀元前610年-紀元前595年)にフェニキア人達がアフリカ周航を行ったことを論ずる条(『歴史』、4.42)で起こっている。フェニキア人達は時計回りに就航していた際に太陽を右手側に見つつ進んだと報告しているのである。近代の歴史家にとってはこれは彼らの報告の真実性を確かにするものである。 プラトン プラトン(紀元前427年-紀元前347年)はピュタゴラス数学を学ぶために南イタリアへと旅した。アテネへと戻って学院を立てた際、プラトンは弟子に大地は丸いと教えたが彼はそれを証明する用意をできていなかった。もし人が雲より高く舞い上がれれば、大地が似ているのは「これらの12片の革で包まれたボールの一つであり、様々な色で飾られており、大地に塗るのに使われた色はある意味で見本である。」中世を通じてラテン語で読めたプラトンの作品『ティマイオス』には、創造主が世界を「中心から端までの距離がどこも等しい球形に、まるく仕上げたのですが、これこそ、すべての形のうちで、最も完結し、最も自分自身に相似した〔どの部分も相似した、つまり一様な〕形で」あったと書かれているが、「世界」という言葉は通常宇宙を指す。 アリストテレス アリストテレス(紀元前384年-紀元前322年)はプラトンの随一の弟子であり、「学派の心髄」[要出典]であった。アリストテレスは「エジプトやキュプロスでは見えるが北寄りの地方では見えない」星があることに気付いた。これは大地の表面が湾曲していないと起こらないので、彼も「大地はまるいばかりでなく、あまり大きくない球だということも明らかである。さもなければ、ほんの僅か移動するだけで、それほど早く明らかな相違を呈するはずがなかろう」(『天体論』、298a2–10)として地球球体説を主張した。 アリストテレスは地球球体説を支持する物理的・観察的な論拠を提出した: 地上のあらゆるものは圧縮・集中によって球を形成するまで中心に向かおうとする傾向をもっている(『天体論』、297a9–21) 南へ向かう旅行家は南方の星座が地平線より上に上るのを見られる; そして 月食時に月面にみられる大地の影は円い(『天体論』、297b31–298a10) 対称性・平衡性・周期的反復性といった概念がアリストテレスの著作に充満している。『気象学』では彼は世界を五つの気候帯に分けている: 赤道付近の炎熱帯から分けられた二つの温帯地域、二つの寒く荒れ果てた地域、「一方は我々より上つまり北極側でもう一方は[...]南極側」にあり、両方とも人を寄せ付けず氷に閉ざされている(『気象学』、362a31–35)。極寒帯では人は生きていけないが、南側の温帯の住民は生きられる。
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