古典期マヤ文明の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:43 UTC 版)
詳細は「古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照 9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、 遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説) 北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説) 農民反乱説 内紛説 疫病説 気候変動説 農業生産性低下説 など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と、少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。 一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン・イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。
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