古典期後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 14:16 UTC 版)
3世紀中葉から、ローマ帝国では、法文化の刷新が次々に進むような条件が揃わなくなり始めた。皇帝は政治生命のあらゆる場面で親政の強化を目論み始め,政治的・経済的状況が全般的に悪化し、共和政体の特徴をいくらか留めていた元首政という政治制度も、君主政という絶対君主制に変容し始めた。法学や法を、絶対君主が設けた政治的目標を達成するための道具ではなく、学問とみなす法律家の存在は、新秩序にはうまく適合しなくなり、著作はほとんど書かれなくなった。3世紀中葉以降の法学者で名前が知られている者は少ない。 395年にローマ帝国が東西に分裂すると更に西方ではローマ法は衰退していった。法学と法教育は帝国の東側である程度続いたが、476年にゲルマン人の一支族であるフランク人が西ローマ帝国を滅ぼすと古典期の法の精妙な議論は軽視され、ついには忘れ去られた。古典期の法はいわゆる卑俗法に取って代わられた。ガイウス、ウルピアヌスなど古典期の法律家の著作やテオドシウス法典はまだ知られていたものの、その内容はあまりに高度であると考えられ、ゲルマン的慣習に適するように書き換えられてしまった。その結果、アラリック抄典などが編纂された。
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